日本人の物語00300【平安中期】承平天慶の乱 藤原秀郷登場*
天慶3(940)年1月。朝廷は、
「将門に対しては徹底鎮圧、純友に対しては懐柔策をとる」
と決定しました。両方を相手にしていては敵わないと見たのでしょう。
朝廷は将門の乱に対し、藤原忠文(ふじわらのただふみ:873~947)を征東大将軍に任命して派遣しました。さらに純友配下の藤原文元に位官を授け、将門追討軍の軍監に任命することが決定されました。純友軍の幹部を懐柔した上で東国に派遣して将門と戦わせようとしたのです。
しかし文元は都に姿を現さず、この作戦は失敗に終わりました。そもそも計画時点で無理があったという気がします。
朝廷が手をこまねいている中、事態を打開したのは唐沢(栃木県佐野市)を拠点とする藤原秀郷(ふじわらのひでさと)という人物でした。この藤原秀郷こそが、平貞盛とともに将門の乱を鎮圧する人物です。
秀郷の子孫はその後「佐野」という姓を名乗り始め、鎌倉時代の佐野常世や江戸時代の佐野政言といった有名人を輩出することとなります。またそのうち触れる機会があるでしょう。
ちなみに唐沢山には現在、秀郷を祀る「唐澤山神社」があります。将門もそうですが、神として祀られるほどに地元で人気を博した人物なのですね。
秀郷は、
「まずは平将門はどの程度の人物か見定めてやろう」
と、単身で将門の本拠地に乗り込み、将門と対面することになります。
藤原秀郷が将門を訪問したところ、将門は髪を結わないまま現れ、2枚の座布団を自ら用意しました。これを見た秀郷は、
「将門は天下をとる器ではない」
と判断し、討伐を決意したといわれています。
私としては大物ぶらないで座布団を自ら用意するあたり、むしろ好感が持てるのですが、現代とは価値観が違うのでしょうね。
この時代において天皇にとって代わる地方国家を創立して運営していくには、天皇と同等の権威が必要だったのでしょう。座布団を自ら用意した将門は、素朴で大らかな好人物だったのでしょうが、いかにも小さな集団の統領に過ぎない印象を醸し出しています。この時点で将門はセルフブランディングに失敗したといえるでしょう。


