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日本人の物語01612【室町/東国/長尾景春の乱】石神井城の戦い

多くの西武線ユーザに読まれることを期待しております。

 大雨により豊島兄弟の討伐を後回しにせざるを得なくなった道灌は、相模国内の平定を優先させました。道灌はさっそく文明9/享徳26(1477)年3月18日に景春家臣・溝呂木正重(みぞろぎまさしげ)の溝呂木城(神奈川県厚木市)を攻略します。敗北した溝呂木軍は磯部城(神奈川県相模原市)へと退却しますが、道灌はこちらも陥落させました。
 道灌が江戸城で次なる作戦を立てていたところ、景春方も攻勢に出てきました。4月10日、景春の命を受けた小机城(横浜市港北区)の矢野兵庫助(やのひょうごのすけ)が、河越城を攻めるべく北上してきたのです。
 当時、河越城を守っていたのは道灌の弟・太田資忠(おおたすけただ:?~1479)でした。資忠は勝呂原(すぐろはら:埼玉県坂戸市)で矢野兵庫助を迎え討ち、見事これを撃退しました。
 相模の敵を次々と倒した道灌は、いよいよ豊島兄弟との戦いに討って出ます。4月13日、江戸城を出た道灌は練馬城を奇襲し、矢を射かけます。練馬城主・豊島泰明は、石神井城主の兄・泰経と連絡を取り合い、全軍で出撃してきました。
 このとき道灌は氷川神社(東京都中野区)に本陣を置きつつ、江古田原・沼袋(東京都中野区)に伏兵を忍ばせていました。敵軍がここを通ったときに奇襲をかけたところ、敵方は大混乱に陥り、城主泰明以下数十名が討ち死にし、生き残った泰経らは石神井城へと敗走していきました。この戦いは「江古田原・沼袋の戦い」と呼ばれます。
 4月18日に、道灌は石神井城と小沢城(神奈川県愛川町)の同時攻撃に踏み切りました。別働隊に小沢城を攻略させつつ、自らは豊島泰経の石神井城を攻撃したのです。
 豊島泰経は道灌の大軍を見て戦わずして降伏し、城を破却することを条件に助命されました。ところが城の破却がなかなか実行されないことから、4月28日になって道灌は総攻撃を加えました。豊島泰経は平塚城(東京都北区)へと逃亡していきます。
 ちなみに石神井城跡には主郭の堀が人工的に破壊された跡があり、これが豊島方による破壊か道灌方による破壊か分かっていません。豊島方が破却の約束を果たしたかどうかは今もって不明です。
 ちなみに石神井城の落城の際のエピソードとして、こんな伝説があります。
 城主・泰経は家宝「金の乗鞍」を白馬に置き、これにまたがって崖から三宝寺池に飛び降りて自害しました。これを見た泰経の次女・照姫(てるひめ)は悲嘆のあまり父を追って三宝寺池に身を投げました。この話を聞いて憐れんだ道灌は、照姫の亡骸を弔うための姫塚を築きました。その傍の松の木に登ると、池の底に金の鞍が輝いているのが見えるといいます。
 練馬区はこの伝説にあやかって、毎年石神井公園で「照姫まつり」を開催しているのですが、そもそも泰経は石神井城では死んでおらず、照姫も架空の人物と思われます。

世田谷城といい石神井城といい、落城の際にはいろいろな伝説が生まれるものですね。

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