日本人の物語00968【南北朝初期】婆娑羅大名土岐頼遠 執行
今日は土岐事件の顛末と、太平記の中でも数少ない笑い話として描かれている後日談を紹介します。
美濃に立て籠もった土岐頼遠は、どうにか謀反を成功させるだけの人手を集めようと必死に一族郎党をかき集めますが、幕府方は先に手を打っていました。頼遠の甥に当たる土岐頼康を、いち早く討伐隊として美濃に派遣したのです。もはや美濃で戦っても勝ち目がないと知った頼遠は、密かに京に戻って天龍寺の夢窓疎石を頼ることにしました。
頼遠は夢窓疎石に連れられて直義のもとに出頭しました。夢窓疎石や他の御家人たちから必死の助命嘆願があったものの、あくまで厳格な直義は
「これ程の大逆を甘く見逃しておいたならば、今後の先例となってしまうだろう」
と言って、興国3/康永元(1342)年12月1日、頼遠を死刑に処しました。頼遠は
「死刑と知ったなら、美濃に立て籠もって一戦交えたものを」
と悔しがったといいます。しかし直義も鬼ではなく、土岐家の取りつぶしは避けました。頼遠の所領を土岐家の子孫が相続することを認めたのです。
このとき、頼遠の弟で周済(しゅうさい)という僧がいました。調査の結果、周済は事件の際に兄と行動を共にしていなかったことが分かり、無罪放免となりました。
夢窓疎石の助命嘆願が失敗したことについて、天龍寺の外壁に
「いしかりし ときは夢窓に 食らはれて 周済ばかりぞ 皿に残れる」
という狂歌が落書きされました。法事で出される食事のことを「斎(とき)」と呼びますが、
「おいしい斎は夢窓疎石に食べられ、酢菜(すさい)ばかりが皿に残っている」
と揶揄したのです。
直義が行った処分に光厳上皇はいたく感謝し、後に直義が病に倒れた際には、石清水八幡宮に願書を捧げて快癒を祈ったほどでした。
この土岐頼遠の一件は、あちこちでおかしな混乱を呼んだと『太平記』は伝えています。あるとき、殿上人が牛車に乗って北野の方へ向かっていた際、ちょうど馬に乗った約30騎の武士たちと出会いました。院と公家の区別もつかない武士たちは、
「これが院とかいう面倒な者か。土岐頼遠でさえ院に行き会って命を失った。我々も咎められてはまずい。下りよう」
と言って、一斉に馬から下りて頭を地面に付けました。
一方、車に乗った殿上人はこれを見て、
「これはもしや土岐の一族ではあるまいか。土岐は院にさえ狼藉を働いたのであるから、我々ごとき者は降りなければ」
と言って慌てて車から降り、武士らの前にひざまずいて挨拶しました。
これを見た人は、
「呆れた有様だ。街頭での礼儀は弘安格式に定められているのに、殿上人が武士に行き会って、車から下りるとは何事か」
と笑ったといいます。
