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日本人の物語01647【室町/西国/六角征伐】吉田兼倶 巧みな話術

吉田兼倶。高校日本史の教科書に載っていたので名前は高校時代から知っていましたが、こんなやばい人物とは知りませんでした。

 文明16(1484)年11月。吉田神社の神主・吉田兼倶(よしだかねとも:1435~1511)が日野富子から一千貫文もの資金を引き出し、吉田山に「斎場所」という八角形の社殿を建てました。そこには全国八百万の神々が祀られ、
「そこに参詣するだけで日本全ての神社に参詣したのと等しい利益がある」
との宣伝がなされました。兼倶はこれを「神国第一の霊場」と自称しました。
 この吉田兼倶とはどんな人物なのか、紹介していきましょう。
 吉田兼倶は吉田神社(京都市左京区)の後継ぎとして産まれたのですが、天性の商才があったらしく、応仁の乱の混乱の中でめきめきと頭角を現していきました。
 兼倶が最初に話題となったのは、文明9(1477)年10月に乱終結を祈願するための安鎮祭を行ったことでした。その翌月にちょうど応仁の乱が集結したため、兼倶は安鎮祭の霊験によるものだと高々に宣伝し、話題を集めました。実際には乱が終わりそうな時期を見計らって祭事を行っただけと思われるのですが。
 11月には、兼倶は「斎場所」を建設するための費用捻出のため、通行税を課したいと朝廷に申請しました。申請に当たっては「神道長(しんとうちょう)」という架空の役職名を僭称(せんしょう:勝手に名乗ること)し、朝廷もよく分からずこれを許可してしまいました。
 兼倶のうさん臭さを危ぶんでいる人もいたでしょうが、兼倶は朝廷内で着々とファンを増やしていきます。兼倶は公家を相手に頻繁に古事記や日本書紀の講義を行っていたのですが、彼の話術はあまりに巧みで、この講義は笑いが絶えないことで有名でした。
 そして文明12(1480)年10月、なんと兼倶は後土御門天皇の日本紀読書始(天皇が日本書紀などの神話を勉強する儀式)を担当する侍読に選ばれました。つまり天皇に直接講義する機会を得たのです。
 ここでの講義も評判を呼び、兼倶は後土御門天皇からも大いに気に入られました。そこで勢いを得た兼倶は、文明16(1484)年11月には富子からの資金援助を得て「斎場所」を建てました。前述のとおり、全国八百万の神々が祀られ、そこに参詣するだけで日本全ての神社に参詣したのと等しい利益があると宣伝したので、伊勢神宮は激怒しましたが兼倶はどこ吹く風です。
 兼倶はこれ以降、既存の神道に喧嘩をふっかけて新たな神道を立ち上げる運動を始めることになります。「吉田神道」と呼ばれるものです。

「講義はめちゃくちゃ面白いんだけど、内容はデタラメ」という自称学者。今もいますよね。

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