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日本人の物語01232【南北朝最末期】明徳の乱 大内の隆盛

現在、戦国時代の下書き作業に苦しんでいます。16世紀前半は書くことが多すぎて、南北朝よりも長くなりそうです。

 論功行賞においては、土岐満貞が内野の戦いで他将が上げた首級を自分の手柄にしようとしたことが発覚し、義満の怒りを買ったことから、尾張守護を罷免されてしまいました。満貞は駿河守護の今川家を頼って島田(静岡県島田市)に逼塞し、完全に失脚しました。
 戦いから2週間が経った元中9/明徳3(1392)年1月13日、山名氏清の妻が自害しました。氏清の戦死を聞いて世を儚んで自害するのは分かりますが、『明徳記』が伝える自害の理由はなんと、
「息子の時清(とききよ)と満氏(みつうじ)が戦の陣から逃亡したことを聞き、武士として恥を知らぬ行動だと嘆いて自害した」
というのです。
 妻が自害の際に強く握って離さなかった手紙を開いてみると、氏清が詠んだ
「取り得ずば 消えぬと思へ あづさ弓 引きて帰らぬ 道しばの露」
(私の命は一度放たれた矢のように、もはや引き返せない露のようなものだ)
との一首が残されており、妻はそれに
「沈むとも 同じく越へて 待てしばし 苦しき海の 夢の浮橋」
(あなたが死ぬとしても、私が同時に橋を越えていくつもりですから待っていてください)
と書き添えていました。
 2月になり、紀伊にいた山名義理は義満に謝罪しますが、義満はこれを受け入れません。新たな紀伊守護となった大内義弘が水軍を率いて紀伊に上陸したため、義理は由良湊へと逃亡し、興国寺(和歌山県由良町)で息子とともに出家しました。その後の動向は不明です。
 一方、山陰に逃れた山名満幸は行方をくらましますが、3年後の応永2(1395)年3月10日に洛中に潜伏していたところを出雲守護・京極高詮に見つかり、斬首されました。
 さて、明徳の乱で最も得をしたのは新たに和泉・紀伊の2国を手に入れた大内義弘でしょう。周防・長門に拠点を持つ大内氏は、これにより瀬戸内海から高麗までの海の道を完全に押さえたことになります。
 しかし大内義弘は得意の絶頂にありながらも冷静でした。この頃義弘がこぼした言葉を、盟友・今川了俊が次のとおり記録しています。
「将軍は強い相手に対しては何かあっても咎めようとしないが、弱い相手に対しては罪が無くても罰してしまう。あなたは忠節を尽くしているからと安心しているが、力を失うと何があるか分からない。あなたも大友や私と結束を固めておいた方が良い」
 これに対して了俊は
「忠節を尽くしている限りは、所領を没収されるようなことはないはずだ」
と言い返しましたが、大内義弘の義満評はまさに的を射ていたと、後年了俊は思い知ることとなります。

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