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日本人の物語01446【室町/西国/大乱前夜】7代将軍義勝の死

7代将軍は最も存在感がない人物です。

 義教への怨念から、アンチ義教派を支援してばかりいる畠山持国ですが、その持国のもとに招かれざる客が現れました。嘉吉2(1442)年3月21日、足利義尊が匿ってほしいと言って来たのです。既に僧形であり、出家して野心を捨てたから赦免してほしいということでしょう。
 足利義尊といえば赤松満祐が擁立した新将軍で、反乱軍の要といってもよい人物です。義教に恨みを持つ持国なら匿ってくれると期待したのでしょうが、さすがの持国もこれを匿ってしまっては反乱軍扱いされてしまいます。苦渋の決断だったでしょうが、持国にとっても管領になれるかどうかの大事な時期だったこともあり、家臣にこれを殺させました。
 このとき、管領細川持之は重病に倒れ、その後任をめぐって暗闘がなされているところでした。細川が管領を務めてきたわけですから次は斯波か畠山ですが、斯波家当主の義健(よしたけ:1435~1452)は6歳です。順当にいけば畠山持国が管領になれるはずですから、この段階でのスキャンダルはご法度でした。
 そして6月29日、畠山持国が見事管領職を射止めました。アンチ義教派が最高権力者となってしまい、ますます義教時代の逆をいく政策が実施されるようになります。管領を辞任した細川持之は8月4日に死去し、嫡男の勝元はまだ13歳です。当面は持之の弟に当たる細川持賢(ほそかわもちかた:1403~1468)が後見役となったものの、細川家の勢いは大きく削がれました。ますます持国のやりたい放題です。なお、持国は管領就任後に出家して「徳本」という法名を名乗るようになりますが、本稿では「持国」で通します。
 畠山持国は「曇天になると気が滅入って人に会おうとしなかった」とのエピソードがあるくらい気難しい人物でした。彼が政権を握ったことで人事は大きく動きます。
 例えば、義教のお気に入りだった正親町三条実雅は所領の多くを取り上げられてしまいました。公家で最も力を持っていた正親町三条家は没落し、これ以降は裏松家(日野家)が復権していくこととなります。
 11月7日には9歳の足利義勝が元服し、ようやく将軍宣下を受けました。幼い新将軍には当然、幕政を切り盛りする能力はなく、その傍らで持国が実権を握ります。
 将軍就任から8ヶ月を経た嘉吉3(1443)年7月12日、7代将軍足利義勝は赤痢に罹患しました。翌日には重体となり、赤松満祐や一色義貫の怨霊ではないかと噂されました。
 そして7月21日に義勝は死去しました。享年10歳。あまりに早すぎる死でした。
 7月23日には同母弟の三春(みはる:後の足利義政:1436~1490)が後継となることが内定しましたが、祟りが噂される室町第には入らず高倉第に住み続けることになりました。
 この将軍死去という混乱の中を狙ったのでしょう。後南朝勢力は「禁闕の変(きんけつのへん)」と呼ばれる大事件を起こします。

もう読者は赤松満祐のことをすっかり忘れているんじゃないかと心配です。

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