日本人の物語00454【平安末期】宇治橋の戦い 源頼政の最期*
明春が暴れ回る中、1時間経っても2時間経っても平家方は橋を渡ることができません。以仁王方の兵たちは調子に乗って、宇治川の岸に立って扇を開き、平家に向かって扇で招くようにして大声で呼びかけました。
「渡れ渡れ。橋を渡ってこっちにいらっしゃい。臆病な大将よ」
これを聞いた清盛の四男・平知盛(たいらのとももり:1152~1185)は頭に血が上り、
「こう笑われては後代までの恥だ。橋は渡れないが、川に入って向こう岸に渡れ」
と兵らに指示しました。
指示に従って平家方の兵たちが川に入りますが、そこに敵の矢が射かけられ、兵らは川に流されていきます。これを見た平家方の侍大将・伊藤忠清は、
「川を渡るため、迂回してはどうか」
と提案しました。ここは水量が多いから渡れないだろうというわけです。
それに対し、同じく平家方の足利忠綱(あしかがただつな:1164?~1194)は
「何をいうか。我が故郷の利根川に比べれば大した深さではない」
と述べ、そのまま宇治川を渡るべきだと主張しました。さすがは東国武士です。
足利忠綱は
「肩を並べて手を組め。強い馬を上流に置き、弱い馬を下流に置くように。馬の脚が川底に届くうちは、手綱をしめて歩かせよ。馬の脚が届かなくなってきたら、手綱を伸ばして泳がせよ。水が馬の上にまで及ぶところになれば、馬の尻尾の根元につかまれ」
と事細かに指示を出し、2万騎を無事に渡らせることに成功しました。このとき、馬によって一時的に川の水が堰き止められたといわれています。
こうして宇治川の南側に平家軍がやって来ました。頼政は橋板を外すことで以仁王が逃げる時間を稼いだつもりだったのですが、平家軍の攻撃は予想以上に早く始まってしまったのです。
宇治橋の南岸で、平家軍と源氏軍の戦いが始まりました。
元より人数差の顕著な戦いですから、いくら勇猛果敢で知られる頼政軍といえども相手になりません。頼政軍はたちまち全滅し、頼政と子の仲綱は自害しました。頼政の辞世は
「埋木(うもれぎ)の 花さくことも なかりしに 身のなる果てぞ 哀しかりける」
でした。埋木のように出世栄達の叶わないまま果てていった自分を自嘲したのでしょう。
無念の最期を遂げた頼政の思いは、後世、夜空に高く舞う蛍に喩えられ、「ゲンジホタル」の語源となりました。
頼政の首は家臣らによって領地の丹波矢田郷(京都府亀岡市)に運ばれ、そこに埋められました。現在、頼政塚は亀岡市立つつじヶ丘小学校の一角にあります。


