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ももクロ夏のバカ騒ぎ 2025から触発を受けたので、雑感──現代的な「祝祭」の在り方に寄せて

「都市に祝祭はいらない」という、日本現代演劇の旗手である劇作家・平田オリザの言葉がある。そこに込められた思惑に触れるところからはじめよう。

※「ももクロ」のキーワードからこの記事にアクセスされたモノノフにとってはすでに周知のとおり、平田オリザはももいろクローバーZの主演映画『幕が上がる』の原作者でもある。

マスメディアが発達した現代において、人々は世界中の刺激的な娯楽に、きわめて容易にアクセスすることができる。
平田による文章を引けば、次のように。

テレビをつければ、自分の本来の生活と関係のない様々な事件やスキャンダルが、走馬灯のように眼前に展開する〔…〕。

平田オリザ『平田オリザの仕事2:都市に祝祭はいらない』晩聲社、1997年、34頁。

平田が上記の文章を書いた時期からさらに状況は加速し、現代では一人一台のスマホが普通になったことにより、人々は世界中の刺激を、文字通り手中に収めている。スマホを手放して街に繰り出したとしても、――都市においては特に――街中には刺激的な広告が溢れ、私たちの神経が休まることを許さない。

つまり、私たちの日常には、かつては「非日常」であったはずの刺激的なコンテンツが溢れている。一方で、逆にかつて「日常」であったはずの身体を伴った活動は徐々に失われている。ここには、「日常」と「非日常」の逆転現象があるといえよう。

このような状況では、「非日常」を演出する祝祭を執り行ったところで、スマホで手に入れられる「非日常さ」を超えることは容易ではない。つまり、わざわざ祝祭をやったところでたんなる消費に終わるおそれがある。そういう意味で、「都市に祝祭はいらない」という平田の言葉は、かなりの程度説得力をもつ。
ちなみに平田は、そのような状況でこそ、自らの肌感覚からは距離のある情報を完全に一度シャットダウンし、自分に関係し身近にあるようなものだけが存在するような空間(つまり、平田の本業とする演劇が上演される劇場)で自己について考え直すような体験が必要だとして論を進める。この論にもかなり重要な意義はあるが、ここではこれ以上踏み込まない。

ここで留意しておきたいのは、個々人で得られる「非日常」には限界があるということである。
第一には、その「非日常」情報の範囲には限りがあるという点において。本来的には世界に開かれているはずのインターネットであっても、アルゴリズムによってアクセスする情報がせばめられることによって、その世界は実際にはかなりの程度閉ざされてしまい、人々は自分の触れたい情報にばかり触れるようになってしまう。これは、フィルターバブルやエコチェンバーなどの言葉をもって、インターネット社会の弊害としてすでに論じられている問題でもある。
第二には、スマホを通して得られる体験には往々にして身体的なものが排除される点において。なるほど、ニコニコ動画などのサイバー空間上で繰り広げられる熱狂的なコメントを通した交流はしばしば「祭り」の比喩をもって語られる。しかし参与者のエネルギーが身体性をもって、圧倒的なまでに蕩尽されることはほぼない。

ここで試みに、「祝祭」という語をもって教育を論じた、ある教育者の言葉を確認してみる。
齋藤孝は、現代における学校の授業を祝祭に喩えている。
授業とは神に祀り物をするのと同じように、これまで教師が溜めてきたエネルギー、知識、指導方法を、見返りを求めないかたちで児童生徒に与えるものだという。

(出典)齋藤孝『教育力』2007年、128-129頁。

齋藤によれば学校の授業とは、児童生徒が「日常」――ここでは、スマホ等による「非日常」に溢れた現代的な意味での「日常」も含むだろう――では接することのできない、なんらかの超越的なものと彼ら彼女らを接触させる機会として想定されている。そして、そのようにして学校教育が提供されることによって、未来や社会に開かれた市民の形成が可能になるという。

このような現代的な「日常」への処方箋をふまえたうえで現代的な意味での「祝祭」を構想するとしたら、それはつまり、紋切り型の「非日常」がありふれるようになってしまった生活に超越的なものを与え、また日常では十分に消費しきれないエネルギーを蕩尽するための時空間、ということになろう。

そういう意味で、ももいろクローバーZによる 「夏のバカ騒ぎ」と銘打たれた、前近代的な祝祭儀礼を想起させもするライブコンサートはとても興味深い。

百田夏菜子は、ここで「頭のネジを外してバカになれ」と叫ぶ。
そして《ロードショー》で「ここから皆様はこのshowの一部になります」と歌われる通り、観客はもはやたんなる観客ではない。ステージ上からの熱気がペンライトを通してステージ上に送り返されることで演者-観客の間に相互作用が生まれている。また、そうした観客の反応が演出の一部に意図的に取り込まれることもしばしばある。

そして演者についても――TDF(Team Diamond Four)という語が象徴している通り―― 、メンバー4人を中心としてバンドメンバーやダンサーなどもパフォーマンスの内に含まれる。
そのようにしてあらゆるものが混然一体となった空間において、そこに参与する者全員がエネルギーを発散する。

そしてここで発散されるものには、エネルギーのみではなく金銭も含まれる。コンサート場外(今年のイベントおいては、もともとは赤レンガ倉庫で実施される予定だったものが台風の影響で急遽ぴあアリーナMMでの開催へと変更となった)では、アイドルのライブコンサートらしいペンライトやタオルなどのグッズに加え、飲食物も販売されている。
また金銭的な蕩尽はステージ上でも演出される。夏ライブの定番としては、必要量以上の水の噴射や花火の打ち上げなどをあげることができる。かつてはセットの構成に5億円を使った歴史もあるほど。

急遽ぴあアリーナMMを貸し切って行われた物販イベント

ちなみに、2014年から2016年までの夏ライブは「桃神祭(とうじんさい)」というネーミングをもって開催されていた。今となっては、「蕩尽祭」のミーニングをもそこに感じ取ってしまう。

というわけで、ももいろクローバーZが提供する「祝祭」を体験したことで、現代にこそ求められるかたちの「祝祭」に関する考えが巡ってきた。
そこで起こっていた祝祭的なバカ騒ぎの様相については、私よりもよっぽど熱心なモノノフのみなさまのレポートに譲ることにしたい。

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