正しさの快感に溺れるな──潜入系YouTuberに感じた違和感
「正義」に見える行動の裏側
最近、ぼったくりバーに潜入する系のYouTuberの動画をたまたま見た。
悪質な店の手口を暴き、被害に遭いそうな人を未然に助ける── その姿勢は一見「正義」に見えるし、称賛されるような行動かもしれない。
けど、俺は見ながら、どこかで強烈な違和感を感じてた。
「なんか、正義に酔ってねぇか」と。
正義が“収益化の手段”になっていないか?
彼らがしていることが、表面的に正しいかどうかじゃない。 問題は、彼らの行動の“裏側”にある動機や構造だ。
俺が気になったのは、 彼らが“広告収入という利益”の上で正義を行っているという点。
正義を行っているようで、実はそれ自体が収益化の手段になってる。
そして視聴者たちは、それを疑問視することなく、ただ拍手を送り、称賛している。
広告収入が止まったら、続けるのか?
じゃあ聞く。
もし広告収入が止まったら? それでも彼らは同じ活動を、命を懸けてでも続けるのか?
さらに言えば、 潜入された側の人間──たとえば店員が、晒されたことで追い込まれて 精神を病んだり、最悪命を絶とうとしたら?
「そこまで考えてるか?」ってこと。
彼ら自身は、「そこまでならないように気をつけてる」とは言うだろう。 でも、それが“絶対に起こらない”とは言い切れない。
それでも、悪いことをしたんだから、自業自得だ。 そう言う人間もいるかもしれない。
「命を絶とうが、それは当然の報いだろ?」 そこまで言い切れるなら、それはそれで一つの筋の通った考えだ。
でも、その言葉を吐く前に、自分に問いかけてみてほしい。
それが“快感としての正義”に酔ってるだけじゃないのかって。
それを支えている視聴者たちも、どれだけその想像力を持ってるだろう?
「警察は動かない」──その批判の矛盾
そしてもう一点。
彼らの視聴者がよく言うセリフで、もう一つ気になるのがある。
「彼ら(YouTuber)は正義の味方だ。なのに、警察がすぐ対応しないのはおかしい。だから警察はダメなんだ」
──そんなコメントも見かけた。
確かに、警察という組織は完璧じゃない。 パチンコの三店方式を黙認してるような“矛盾”をはらんだ面もある。
でも、その矛盾を飲み込みながらも、警察という組織が機能しているからこそ、 日本の治安は悪くなったとはいえ、まだ世界的に見ればかなり良好な方だ。
司法というのは“ルールの番人”であり、 個人が勝手に正義を執行することが当たり前になってしまえば、 それは“私刑”になりかねない。
彼らが「犯罪を未然に防いだ」「警察に通報して渡した」──そう主張するのはわかるし、それも事実だ。
でも、やり方次第では、それは司法への“越権”と取られてもおかしくない行為だ。
正しさに酔った瞬間に起きる“思考停止”
正義ってのは、扱いを間違えれば、悪以上に暴走する。
俺が言いたいのはただ一つだ。
「自分の正しさに酔った瞬間、人は思考を止める」
自分は正しいことをしてる。 悪を暴いてる。 誰かを助けてる。
──そう思った瞬間、その“正しさの快感”に溺れて、 自分への問いをやめてしまう。
自分の言動が生む“副作用”や“リスク”を見ようとしなくなる。
これは何も、YouTuberだけの話じゃない。
SNSでも、職場でも、家庭でも── 「俺は間違ってない」って信じ切った瞬間に、人は他者の声を聞かなくなる。 他者を追い詰める。
そして、こういう記事を書くと、YouTubeのコメント欄のような連中から、 「お前は騙してる奴の肩を持つのか」そんな風に言ってくる奴もいるかもしれない。
だが、それも違う。
俺は、ぼったくりバーで稼いでるような連中が、俺の考えに賛同してくるのもちげぇ、そう思ってる。
なんなら、ぼったくりバーで稼ごうが、 潜入系YouTubeで広告収入を得ていようが、 そんなのは自分で選んだ稼ぎ方であって、 俺が否定したり批判する立場じゃねぇよって話だ。
俺が言ってるのは、 「正義に酔って、思考を止めるな」ってことだけだ。
自分への問いを止めるな
俺がnoteでいつも言ってること。
それは「俺はこう思う」っていう“自分の軸”を持つこと。 でもそれと同時に、「それって本当に正しいか?」って自分に問い続けること。
正義の名のもとに、人を潰さないために。
お前はどう思う?
