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「孤詠歌」



_______ アンドレイ・タルコフスキーに




閉ざされた扉に手をかけたのは、薄ら覚えの面影が揺れたからだった。
爪先の引っ掛かりを気にしつつ、先客の残像に名分を与えると、抹香のような沈着さが訪れる。


踏みこんだ階段の感覚すら曖昧だったが、高みは夏景色を約束していた。
夏草の匂いが扉の向こうに鮮やかに映発した。
川岸の朝靄はベールを静かに脱ぎ、水面を揺らすことなく落ちた枯葉を浮かべている。

どんよりした帷のすそをかいくぐると、誘いの声が扉の先から伝わるのを、なかなか振りはらえず、暗幕に身をまかせればと案じた。


そちら側から見通せるのだろうか。


虚ろな鼓動だけに耳をすませば、いつしか先客に導かれていた形勢はまぼろしに過ぎず、魂魄の気配は消えてなくなり、閉ざされた扉の沈黙を、ぼんやりと受け入れるしかなかった。

逍遥につきものの、高い空を見上げる身振り。

どこかで限りない跳躍を望んでいるのに、晴れ晴れしくない調子にあわせた、隠された太陽の輪郭。

秘めた黒点の影に導かれ旧街道を歩きだした。


知った道幅はいにしえの風に彩られ、褪色した切り絵の輪郭にならっている。
しかし定まらない微妙なずれは、景色を間延びさせ、眼に映ることごとくが奥行きへと導かれてしまった。


忘却の彼方にあって身を揺るがす浮遊感。
遠い浅瀬をさかのぼり。
透ける遺物の影。
辺りは変容を余儀なくされ、笙の音が醸す寂然とした写し画に点描され、翳りへと織りなされてゆく。

音曲の染み入るごとく、道行は転じ、影だけが追いついた。


風に吹かれた背がわずかに屈む気がし、うっすら砂埃の立ち込めるなか、寺社につらなる家屋の造りまでが、閑麗なたたずまいに映りはじめる。
朽ちかけた山門は開かれたまま、時間を淀ませていた。

うらはらに意識を止める風が吹く。
こどもの時分、誰彼なく駄菓子をねだっていた記憶が裏木戸の影に。
ゆっくり扉は閉まった。


また写真機を持ち忘れてしまっている。


悔やんだ意識はゆるやかにうつろい、瓦からにじむ墨汁のひろがりに淡い青みを見出した。
だが晴れやかな視界は続かず、突然の雨。
空気の色が胸のなかに落ちる。

人知れず樋をつたう雨水の浸透してゆく先には、腐臭がそっと逆巻き、風景は被さってゆく。

浅瀬は上流に連なり、せせらぎとは異なる急流に散らばる水音。
橋を渡る風の勢いを借りれば、川の流れは退き、いつしか険阻な山道を踏みしめていた。

靴ずれは永遠に治らない、早くも痛覚が森林にこだまする。
新緑のささやきが孤影を歪めた。


木立の間隙から降りそそぐ陽射し。
苔むした石畳に明暗は強まり、次第に高まる傾斜は風を呼び止めていた。
湿気が肌に触れた瞬間、岩清水を束ねた光景にせまっており、息がつまる。

眼前に開けた予想もしなかった源流がひろがった。玲瓏な水しぶきによって守られた約束。
虹彩をふさぐまばゆさが、細くとぎれたひぐらしの音に吸い込まれてゆく。


転倒してはいけない。

祈りをはらんだ森林の空気は乾き始めていた。


たどり着いた袋小路には、石畳の趣きから大きく隔てられた人工的な砂防が横たわり、下方を振り返れば、まやかしは山間に漂い、今までの視野を厳かに裏切っている。
侵食されたコンクリートの厚い壁が、ひび割れた鏡のごとく。

歪みながら赤錆を滴らせ。

砂防の囲いには激流がたたえられ、鮮烈な飛沫が頬をかすめた。
同時に下山の思惑に押され、秘境へまぎれこんでしまったとまどいは浮遊し、ささいな抵抗を試みた。

水中眼鏡を忘れているというのに。

不慣れな足つきで歩み寄り、激しい流れをのぞき見る。
頬をぬらすしぶきは涙の役割を担ったのか、薄明かりの灯された眼中には、遠い陽だまりのような静けさが分け入り、清澄な淀みが現れた。

とても古い記憶が、水底に沈んだ小岩に触れると、曖昧な影は色彩を蘇らせようと躍起になる。

岩苔を揺らす鏡面。
荒い呼吸を整え。


そこに魚影を見出した。


暗色だが二匹に違いなく、悠然と視界を横切っている。
透ける浅瀬の時刻は映されていなかったが、やっと目の当たりにした、水面に泳ぐ顔。


青臭さの手前で没して。
だが欲望の焔はなにも変わらない。こどもの時分より。


魚影に別れを告げる間もなく、詠いが流れてしまった。