軋轢
__________ 静かなる饗宴
紫煙が天井へゆっくりと溶けていた。
薄闇の寝室には、まだ女の肌の熱が残っている。
乱れたシーツの上で男の指先だけがかすかに動く。灰皿には吸いかけの煙草が二本、重なるように押し潰され、湿った匂いを漂わせていた。窓は少しだけ開いており、雨上がりの夜気がカーテンを揺らし、そのたびに脱ぎ捨てられた絹のスリップは床の上で微かに擦れた。
男は裸身のまま枕に半分沈んでいる。
腹の緩み、喉元の皺、重たい沈黙。国家を影で動かす人間の肉体は驚くほど脆く、醜かった。
その隣で女は背を向け煙草を吸っていた。白い肩に灯の青白い光が斜めに落ちている。指先が煙草を持ち上げるたびに薄い煙は鎖骨をなぞり、胸元へと沈んでいった。
男の手は名残を探すように女の腿へ触れたが、それを避けず、拒みもしない。ただ、灰を落とすために少し腰を浮かせた。
その動作だけでシーツの陰から滑り出た素肌が、夜気に冷やされてかすかに粟立った。
「今夜、官邸へ来てくれ」
男はそう言って、水を飲むようにウイスキーを口へ運んだ。
「なに大した会じゃない。顔を出す連中が少し厄介なだけだ」
女は黙ったまま。煙を長く吐いた。
煙の向こうで相手の輪郭が曖昧になり、条約の裏文書、名前の消えた外交官などの不穏な空気が淀みはじめる。
極東の海域に沈んでいるという膨大な金塊の輝きが、カーテンの隙間から鈍い輝きを放つ街のネオンに結ばれる。
女は立ち上がり、鏡の前へ向かった。
裸の背中を黒髪が滑り落ちる。鏡越しの視線には何も映っていない。口紅を引き直す動作だけが妙に正確で、冷たかった。
念押しのように喋った男の低い声は、耳に届かない。鏡面を射るどこの光線かわからない反射に身体が少しだけ震えている。
鏡のなかの私が、声にならずに呟いていた。
「これまでの暗躍で何人が成功してきたのだろう」
その夜、私は借り物の名前で官邸へ入った。
青い花柄のチャイナドレスは、身体の線を隠そうとしないどころか、窮屈な色香の発酵を求め、歩くたびに深く裂けた裾から脚をのぞかせた。
受付で軽く笑い、グラスを受け取り、誰かの妻に近づいてはうなずく。それだけでほとんどの人間は気を許し、社交慣れした笑みは途絶えることがなかった。涼しげなまなざしを秋波の手前で切り売りしていれば、どんな尊大な名士だろうと、まんざらでもない会釈を無骨に返してくる。
ただ、綺麗に微笑んでいればいい。
シャンパンの弾ける泡をひと集めにした大広間は、明るさに満ちていた。
巨大なシャンデリアの粒が、酒と宝石と脂ぎった笑顔の上へ無数に降り注いでいる。政治家たちは声高に談笑し、財界人は懐に手をあてながら腹を揺らし、夫人らは陽気な仮面で首を傾けていた。
ピアノ演奏は音量を増し、ミッシェル・ルグランの「風のささやき」を疾走感にあふれながら奏でている。
私は柱のそばに影のように立ち、人波を眺めていた。
胸元の裏へ忍ばせた送信機は、煙草入れほどの大きさだが、体温でわずかに熱を持っていた。鼓動の小さな響きは感受されない。
そのとき、若そうなのに紳士然とした風貌が視界に入った。
上質の仕立ての黒い背広は光彩をわがものにしているが、壁際に立ったまま誰とも会話をしていない。落ち着きはらった目だけが静かに場内を巡回している。
私は視線をそらさなかった。そらした瞬間に敗北が運命づけられる。そんな鋭敏な予感をおよがせた。
紳士はこちらへ歩いてきた。ピアノの階調にも乗らず、とても静かに。
「初めて見る顔だ」
甘い声だった。私は微風のような笑みを浮かべながら、グラスの縁に口をつけ、落としたまなざしのまま、少し遅れて答えた。
「あなたも」
相手は真顔を崩さず、私の内奥をのぞき見るような目つき。
まだ青年の面影を十分に残し、野生的な香りを発している。エントランスに積まれていた真紅の薔薇の花束が遠目に霞んで見える。
ほんの一瞬。だが、それで充分だった。
背中まで汗が滲み出し、ピアノの音が途切れ途切れに聞こえだす。
周囲には誰かの薄ら笑いが連結を求めている。が、会場はまばゆい光線を受けた緩やかな空気に亀裂を入れず、調和らしさは保たれていた。
青年は私の耳元へ顔を寄せた。
「それを外してもらおう」
囁きに近い声だった。私は目線を合わせたまま無言でいた。
ため息に近いくぐもった声で、もう一度うながされる。
時計の秒針が角度を刻む間もなく、ふくよかな絨毯をこするような摩擦が訪れた。
手がゆっくりと私の肩へ触れた。次の瞬間、布が裂ける音がした。鋭く短い音だった。
青い絹は鋭利な刃物によって胸元から引き裂かれ、送信機が床へ落ちる。乾いた音を立てシャンデリアの光を弾いた。ざわめきが止まる。ピアノも止まる。
男の手がさらに裾をつかんだ。絹はあっけなく裂け、冷たい空気が肌を撫でた。白い肩からすぐに胸があらわになり、容赦なくシャンデリアの優美な光の下へさらされた。
反論の余地がないのは最初からの決まりごと、反抗の姿勢は隠されることだけに委ねられている。
これから始まったかも知れない、優雅なワルツの調べが天井に染み入る。そして足もとからゆっくり視界を抱き寄せながら崩れ落ちた。ドレスの裾がこんなに煩わしいと嘆きつつ。
四つん這いになった手足に触れる絨毯は、掃き溜めより汚らわしく感じた。
声を立てるものは誰もいない。政治家たちはグラスを持ったまま固まり、夫人らはその隙間から視線を投じている。
沈黙だけが異様に豪奢だった。
不思議と羞恥は来なかった。あるのは、妙に乾いた感覚だけだった。
男が拳銃を抜いた。
照明に応えた鈍い黒い銃口が胸元へ向けられた。
「では飲むしかないな」
紳士然としたもの言いだが、非情の陰りもなく、水差しを傾けてくれるような気配りが感じられた。
私はゆっくり髪をかき上げた。耳飾りの裏に、薄いガラスのアンプルが隠してある。指先でそれを取り出した。
会場の呼吸は、そこで止まった。
透明な小粒の劇薬が、シャンデリアの光を受けて大きく輝く。
アンプルからこぼれ落ちる液体に溺れ、欲望とともに沈んだ金塊の欠けらを、深海でかじりつく。
男が一歩近づいた。
誰かが嘆く。
その瞬間、私は初めて彼の顔立ちすべてを見たのだった。
ひどく穏やかな容貌。
最初からすべてが終わったあとを眺めているように。



















