霧の時間
_________ いつか見た透ける斜面
富士山麓に流れた時間は白い揺籃だった。
すべてを呑み尽くす山の気流が、白く、冷たく、胸の奥底で音もなく這い上がり始める。
車は山の中腹へと延びる有料道路を、タイヤを滑らせながら登りつめた。
夜間の通行を阻む硬質なゲートの手前。
闇のなかには車列が長々と路肩を埋めていた。エンジンを切り、訪れるべき夜明けを待って仮眠をとる。
大人たちの静かな寝息が満ちている車内。
夜気の侵入はおぼろげな夢想を見守っていた。
訪れたのは激しい尿意であった。
誰の眠りも妨げぬよう、そっとドアを開け、夜の山道へと足を踏み出した。夢遊病者の足つきをまねれば、道路脇の濃い木々の影が密かに嗤う。
鬱蒼たる木陰に身を隠し、用を足して振り返った刹那、視界は未知なる闇に完全に射すくめられた。
灯りの途絶えた山道には同じような四角い車影が、延々と路肩に並んでおり、どれが帰るべき場所なのか、まったく見分けがつかない。
車からほんの数メートル離れたに過ぎないのに、光は天空の果てに遠のいてしまい、暗闇の迷宮のなかへと放り出されていた。
これまで経験したことのない、重く、深い、暗黒の世界。
大声を張り上げて大人たちを呼ぶことは、子供心にもひどく躊躇われた。声を上げればこの静謐な夜の支配を、冒涜してしまうような胸騒ぎがしたから。
やがて夜目にも見知った顔を、車のガラス越しに見つけたときの安堵。
そっと座席へと滑り込み、冷たい夜気のなかで目を閉じた。
夜が明けゲートが開かれると、車はうねる山道を登りつめた。
五合目のレストハウスは、希薄な空気に守られて聳え立ち、来訪者に微細な拒絶を示しながらも、これから先の険阻な道のりを優雅に讃えている。
自販機のファンタアップルが三倍近い値段で売られていた。
踏み出した足元は土ではなく、見渡す限りの広大な火山砂利と小岩の海であった。
見上げれば雲一つない虚空の青さ。
けれども見下ろせば、遮る樹木もない急峻な傾斜が、果てなき下界へと吸い込むように誘っている。
一歩を刻むたびに、足元がズルリと後ろへ滑るその不確かさは、もし今ここで転倒したなら、きっと下界の果てまで転げ落ちてゆくのではないかという、めまいと戦慄を背負わせた。
スポーツ店で買ってもらった、厚手のトレーナー生地のフードパーカー。
真新しい木綿の匂いは雄大な空気に希釈されることなく、新鮮な香りを放っている。
山頂へとたどり着く意気込みを清らかに包みながら。
それを深く被るとなぜか勇み足になってしまい、同行者たちを引き離し、先んじて斜面を登っていた。
天候の急変は神の気まぐれのように、唐突に、かつ圧倒的な速度で訪れた。
さきほどまでの青天は一瞬にして掻き消え、足元の地面を這うようにして、濃密な霧雨が下界から押し寄せてくる。
見渡せる景色が急速に白一色へ塗り潰されていった。
視界はたちまち数歩先に限られ、前後左右の感覚は冷たくなって霧のなかに溶けてゆく。
恐怖のあまり、傍らにあった少し大きめの岩を見つけ、それにすがりつくようにして身体を伏せた。
ここで下手に身動きしたなら、二度と戻れぬ奈落へ落ちる・・・その野生の勘だけが岩に縛りつけていた。
おんぶお化けが能面のような顔で微笑んでいた。
どれほどの時間が流れただろうか。
霧の彼方から誰かを呼ぶ微かな声と、おぼろげな人影が迫り寄り、からくも身体は引き戻された。
はぐれたら最後という、冷え切った恐怖の音像。
大人たちの沈着な表情が薄く見通せたとき、時間は止まり、乾いた日輪の勢いが赤茶けた地面に吸い込まれる。
夏空は考えていたよりも涼しかった。
そして恐怖の余熱に急かされた足取りを、下山の途上でまたもや早めてしまった。
勢いづくのは幼い時間がなにより心得ている。そんなうわごとに運ばれた勾配は風向きを知らない。
白い闇の晴れ間のなかで、繰り返された寄る辺ない孤立。
焦燥が極点に達したそのとき、意識の奥底で、奇妙な光景が静かに横滑りしてきた。
胸騒ぎを諌めるように、急斜面の砂利石は乾いた音で後ずさる。
狭まる空間の息苦しさは虚脱にとって代わると、周囲の狂おしい霧を、どこか遠い劇場の舞台装置のように見つめているもう一人がいた。
耳鳴りのような静寂のなかで、幼き日の記憶の深淵へと、ゆっくりと降りてゆく。
それは遥か幼き日に迷い込んだ、郷里の祭りの宵の記憶と、鼓膜の奥で響き合っていた。
普段ならば決して外出を許されぬ深更、子供の足にはあまりに広すぎる夜の街。
見知らぬ大人たちの群れに混じり、ただ手にした提灯の仄青き灯りだけを頼りに歩いた、あの神妙なる夜行。
駄菓子屋の風船のなかには夜が膨らんでいた。
闇はただの暗闇ではなく、生き物のようにうねり、提灯の蝋燭が揺らめくたび、漆黒の壁には大人たちの巨大な影が万華鏡のように映しだされていた。
笛の音と太鼓の地鳴りが、心臓の鼓動と重なり合い、現世の境界が融けてゆく。
あのときの足どりは完全に地を離れ、ただ上半身だけで虚空に浮かんで歩いているような、得体の知れない遊離感に包まれていた。
辺りから喧騒は退き、身体はただ光と闇の織りなす大いなる流れそのものになっていた。
寝小便を忘れながら。
今この富士の濃霧のなかで、足は完全に地を離れていた。
ズルズルと滑るはずの火山礫の感触は消え去り、身体はただ、白い混沌のなかを漂うようにして下ってゆく。
恐れはなく、空間に入り混じる厳かな体感だけに満たされていた。
眠りのなかの眠りが、至近距離で眼球を動かすごとく。
霧の向こうから突如として、人を乗せた一頭の馬が現れた。
夢の迷いならきっと白馬。
瞬時、時代劇の律儀な映像が脳裏をよぎり、うれしさと屈従が折り重なった想いを胸につないだ。
微かだが下界から降り注ぐ霧雨を弾くような鈴の音が届く。
のちにそれは五合目と六合目を往還するための、観光引馬だと聞かされる。
見知らぬ人影のなかに混じり、馬の確かな蹄の音と、揺れる大きな背中の後を、導かれるようにして追って行った。
霧のなかでも、誤りなく正しい帰路を知っていた。
レストハウスの建物が見えたあたりだったろうか、あるいは舗装道路が足元に戻ってきたあたりであったろうか。
張り詰めながらも揺蕩っていた意識の糸が、ふっと解けた瞬間、記憶は白く途切れてしまった。
気がつけば同行者たちの輪のなかへ、何事もなかったかのように戻っていた。
大騒ぎして探していたであろう大人たちの声も、安堵の表情も、不安と恍惚のなかにいた耳目には、見果てぬ異国の出来事のように淡々と映るのみであった。
黒い闇、白い霧、そして穏やかな馬の背。
遥かな時間が揺籃に乗ってゆっくり動きだす。
鈴の音が、今も霧の彼方で小さく鳴っている。
























