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夜の眼


________ 昭和原風景「声なき影」




暮れゆきを忘れた空には、春先のぬくもりを運ぶ雲が居座っている。
ありふれた日々が穏やかに過ぎゆくことに抵抗などあるはずもなく、走りまわったったあとの汗もすぐに冷えた。
仮面ライダーごっこに興じていた暮田静夫たちは、本気で改造人間になれると思っていたし、路肩に落ちている錆びた鉄屑を拾っては、秘密基地の部品だと言い張っていた。
ほぼ毎回見かけるスズメの群れや、のっしりと優美に尻尾を立てて歩いていく野良猫にも、それぞれあだ名がつけられており、いつショッカーの怪人になるのか、不思議なまなざしを投げかけていた。地を忙しく這う蟻にだって。


町にはまだ空き地が残っていて、日没を迎えると赤錆びたブリキ缶の匂いを漂わせ、傍らの窪みに残った昨夜の雨水には、遠い街頭の小さな灯りを滲ませていた。
子供たちは正義の味方に熱狂していたけれど、その熱はおのずと方向を変えつつあった。


蛇女、吸血鬼、宇宙人に口裂けの女の噂。漫画雑誌に載っていた恐怖写真、そしてまぶしい女体。
テレビ放映による影響は確かだったが、一枚の写真に閉じられ、見えない風となった渦巻く妄想は、隣近所の屋根を高く越え、町外れの河川まで吹き流されてゆく。
静止しているにも関わらず、時間が引き伸ばされてしまう錯覚は、空き地のまんなかに積まれたコンクリート土管の穴に寝そべった感触によく似ていた。


テレビは昼より夜のほうが本当の顔をしている。あのドラマはたしか平日の十時過ぎだった。


地方局が穴埋めみたいに流した単発作品で、題名を正確に覚えている者はいなかったけれど、大人たちは煙草をくゆらせながら、
「片眼の女のやつ」
とだけ呼んでいた。
出演していた女優は妙に親しみのある顔立ちをしていた。が、スターというほど華やかではない。
名前も出てきそうで、思い出すたび、雨上がりの空気のごとく澄み渡ったけれど、それは一瞬であり、通学路で見かける水たまりのあめんぼの影を彷彿させた。
しかし、場末のスナックにいても不思議ではない程度に色っぽく、週刊誌の口絵にも載っていそうな魅惑を持ち合わせていた。

静夫は彼女を大人の女として眺めていた。たぶん分別ある年配者も同じだと言い聞かせながら。
ブラウス越しの豊満な白い胸元、煙草を持つ細い指先を染めた真っ赤な爪。汗ばんだ額から首筋への流れ。
が、なにより魅了されたのは身体ではなく眼だった。
恋人に裏切られた末、激情のあまり振りまわした裁ち鋏が自分の片目に刺さる。その苦痛と煩悶が見てはいけない光景として焼きついてしまって、大人びた共感は奇妙なねじれを引き起こした。


そこだけ妙に生々しい。


ドラマはそのあと早々に怨霊譚になる。しかし印象に残ったのは、血でも殺人でもなく、眼帯を外したときの、あの濡れたような面持ちだった。



暮田静夫は今夜も布団を被り、震えこそ生じていないけれど、いたたまれない気持ちを抱え込んでいた。
ふと真夜中に感じた同じ部屋の気配。声なき影が重なり合っている見たことのない光景。
両親は寝息を立てておらず、闇に溶けた半身の素肌は、眼が霞んで動きさえわからなかった。

「夢であって欲しい」

そう願うのが精一杯、あとは嵐が去りゆくのを待っている心持ちだった。
夜具に篭った不穏な空気を受けているにもかかわらず、感じ取っている自分の方が悪く思えてしまう。
テレビドラマの歪んだ関係をよくわからないまま見つめていた記憶が、闇のなかへ鮮やかに展開する。
耳にしているのかさえ、あやふやな衣摺れが、時計の秒針に幽かに絡み合う。
静夫は一度その気配を覚えてしまうと、深夜の目覚めが頻繁になり、眼が開いてしまうようになった。


誰かが言い出した。
「あれは隣町の事件が元なんだってよ」
根拠などないことは知れていた。だが、その頃の町には噂が発酵するのに十分な暗がりが残っていた。
遠方と呼ぶには語弊があるけれど、日常風景の細やかさが追いついていない事実が、こころの距離感をずっと間延びさせていたし、卑猥な妄想を追いやるのに適度な竹箒の役目を果たしていた。
大通りの華やかさと明るさから逃げた商店街の裏路地、酔客と連れだったいかがわしい女、閉鎖された映画館。
夜が更けると、世界にはまだまだ広い余白があった。

静夫がクラスメートから聞き及んだのは、もはや噂というより、実証を見守っている群衆のざわめきであった。


「片眼の女を見た」という話は増殖していた。

それは夜の片隅だけにとどまらない。
日当たりのいい踏切、タクシー乗り場、親子の姿を包んでいる公園、会話の絶えない団地の踊り場。寂しくなった学校の裏校門。
目撃者はみな口を揃えて「綺麗だった」と言う。
静夫はその話を半分だけ信じていた。信じきれなかったのは怖かったからではなく、本当にいるなら、自分も見たいと思っていたから。

家のひとつ先の道筋にあるいきつけの、駄菓子にジュース、日用品から小型家電まで売っている「いずみ商店」の若旦那も、同年輩の客とあの女優の話をしていた。
ただ、実際に聞いたのか、自分で勝手に作った情景なのか、その場で溶け出す夏日のアイスクリームのように柔らかな記憶である。

「ああいう女はな、いちばん男を駄目にするんだよ」

「隣町で見たって話があるらしいな」


小声はやまびこのごとく、町なかに響きあう。


夕暮れの店には、醤油と石鹸と鉛筆の芯の匂いが混ざっていた。
裸電球の橙色だけが妙に濃く、ガラスケースの瓶ジュースまで、どこか透きとおった夢の色彩みたいに映った。
静夫はその女が本当にテレビの中だけの人間だったのか、急速にあやふやになってゆき、帰り道に延びた自分の影法師さえ、誰かの使いであるように思えてしまった。


その夜、いつもの連続ドラマの主人公である娘が、工場地の土管の脇に捨てられた子犬を拾って持ち帰り、両親に小言を受けている場面を見た。
ふと、けもの臭さとは一概に言えない、朽ちかけた藁、柿の木の下の土、校舎の下駄箱、そんな匂いが混じり合い鼻孔をつく。


おさない頃、飼いきれなくてよそに譲り渡した犬のペロに似ていると思い、顔を背けてしまった。








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