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【子孫シリーズ】本多正信の子孫は現在いるのか

【はじめに】

徳川家康の腹心で「友」とまで呼ばれた知恵袋「本多正信
他の武将にはずいぶん嫌われていましたが・・・。

そんな正信の子孫は現在いるのでしょうか。
「正信の息子の正純は処罰されて、本多家は改易されたから子孫はいないのでは」と思われるかもしれません。

私も正信の子孫は絶えたのかと思っていましたが、以前「正信の子供が加賀前田家の筆頭家老になった」という話を聞いたことがあったのです。

そして、何年か前に金沢に旅行に行ったときに、「加賀本多博物館」というところに行ってきました。
その館の説明によると正信の次男が加賀前田家の筆頭家老になり、代々家老の職を継いできたそうです。

その子孫の人は現在もいるとかで。
なので、正信の子孫は現在もいます。

なぜ、正信の次男が加賀前田家の家老になったのか、そのいきさつなどを調査してみました。


本多正信には、「本多正純」、「本多政重」、「本多忠純」という3人の息子がいました。
正純の下に2人息子がいたわけです。

加賀前田家の家老になったのは次男の本多政重という人物ですね。
その前にまず長男の本多正純から説明したいと思います。


【本多正純】

本多正純は江戸幕府において父正信と供に家康を支えその側近でした。
大阪冬の陣の後に、大阪城の外堀だけでなく内堀まで埋め立てるよう進言したのは正純と言われています。

「どう家」では正信はイカサマ師と言われていましたが、父に似てこずるいやつだったようです。

1616年に家康と父正信が相次いで亡くなると、秀忠の側近になり年寄(老中)されました。

しかし・・・家康や父正信といった後ろ盾がなくなってしまい、秀忠やその側近たちからは良く思われていませんでした。

性格悪かったようですね。

1622年に正純は秀忠の怒りに触れ突如失脚していまいます。
理由は居城宇都宮城で秀忠の暗殺を図ったなどのものでした(宇都宮釣天井事件)

しかし、この事件は証拠がなくでっち上げだとされています。

この事件で本多家は改易、正純と息子の正勝が秋田の久保田藩主・佐竹義宣に預けられ、横手で幽閉となりました。

正純は大きな功績をあげましたが、父正信のように周りからの評判が悪かったようです。
それで権力争いも絡んで失脚してしまったようですね。

少々気の毒な気もしますね・・・。

その後、正純の孫(孫がいたのか)である本多正好(ほんだまさよし)は和田姓を名乗り、美濃国で暮らしたそうです。

その子孫は姓を木村に改め、現在も子孫の人はいるとのこと。
かつて正純が居城としていた宇都宮市の祭典にも出席しています。

姓は変わっているものの、長男本多正純の子孫も現在までちゃんといました。


【本多政重】

次男の本多政重は武闘派の荒っぽい性格でした。
政重は人生は波瀾万丈でした。

まず、徳川秀忠の乳母の息子である岡部荘八という人をを争いの末に斬り殺していまい、徳川家を出奔してしまいます。

その後、大谷吉継、宇喜多秀家、福島正則など、数々の大名に仕え、正木左兵衛と称した時期もありました。

関ヶ原の戦いでは西軍の宇喜多軍に所属していましたが、敗戦後は正信が家康の最側近だったこともあって、処分は免れたそうです。

その後、福島正則に仕えるもすぐに辞去し、前田利長に3万石で召し抱えられます。

また、上杉家の重臣・直江兼続の娘である松を妻に迎え、直江大和守勝吉と名乗って直江家の家督を継ぐ話もありました。
しかし、松は翌年に死去し、兼続の実弟・大国実頼の娘である阿虎を改めて妻としますが、これには大国実頼が反対して出奔するなどの騒動もありました。

そして、上杉家を出奔し、その後は加賀藩前田家に出戻ります。

幕府から前田家の領地返上を迫られた際には、交渉に奔走して撤回を取り付け、また、大坂の陣直前に前田家が反逆の疑いをかけられた際には、江戸に参上して釈明し、事なきを得るなど、前田家の危機を幾度も救いました。

武力だけでなく知力もありデキる人だったようです。
さすがは正信の息子です。

これらの功績により、加賀藩の筆頭家老となり、加賀八家本多氏の初代当主になりました。

政重は徳川家康の間者だったのではないかという説もあるほど、ころころと主君を変えた人物でした。
藤堂高虎もビックリですね。

政重の子孫は前田家の代々筆頭家老として加賀藩を支え、その子孫は現在まで続いています。

現在の当主は15代当主の「本多政光さん」という方です。
私も行った加賀本多博物館の館長を務めています。
加賀本多博物館には本多家の調度品を数多く展示しているので、興味のある方は一度行ってみてください。

また、本多政光さんには娘さんが3人いて、長女が婿養子である「本多俊彦さん」を迎えています。
16代目の人ですね。

本多俊彦さんは、高岡法科大学で准教授と務めており、加賀や本多家について、研究を行なっており、論文や出版物を出しているそうです。

なお、本多政重の子孫の名前には「」の字が必ず入っているそうです。
婿養子の本多俊彦さんは例外ですが。

「本多正信の子孫」というより「本多政重の子孫」といった感じが強いそうです。


【本多忠純】

三男の本多忠純は、下野榎本に1万石を与えられて榎本藩を立て、初代藩主を務めた人物です。

次男の政重に似て武闘派の荒っぽい性格の人物だったそうですが、藩主としてやるべきことはやっていたそうです。

大阪の陣にも出陣しており、毛利勝永に敗れてしまうものの、なぜか1万8000石を加増されました。

何らかの手柄を立てたのか、父正信の威光のおかげなのか。

その一方で、忠純は短期で、家臣を手討ちにすることもしばしばありました。
そのため、家臣からは恐れられており、自分が殺されることを恐れた家臣に暗殺されてしまいました。

足利義教みたいな最期を遂げましたね・・・自業自得ですが。

忠純亡き後も家系は続きましたが、後継者が続けて若死していまい、1640年に榎本藩は改易されてしまい、子孫も絶えたそうです。

なのでこの忠純の子孫は残っていません。
忠純の行いが悪かったから子孫が絶えてしまったのでしょうか。


【おわりに】

本多正信の子孫は姓は変わっているものの正純の子孫、そして加賀前田家の筆頭家老になった政重の子孫が現在まで続いていました。

正信に正純以外に次男、三男がいたとは知りませんでした。

それにしても政重の人生は思い切り波瀾万丈ですね。
それでも、前田に拾われて筆頭家老にまでなってしまうとは能力のある人だったのでしょう。

本多正信の子孫はちゃんと現在まで続いていたのでした。




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