「法哲学の諸分野」——『法哲学事典』読解(2)
『法哲学事典』(丸善出版)を一項目ずつ読んでいく連載の、2回目です。今日読んだのは「法哲学の諸分野」(8頁)という項目。法哲学という学問が、内部でどんな分野に分かれているのか。いわば見取り図を示す項目でした。
読みながら、私はロースクール時代のことを思い出していました。あの頃の毎日は、とにかく六法(憲法・民法・刑法などの基本的な法律)を頭に叩き込む日々です。司法試験に受かるために、法という「ゲームのルール」を、できるだけ速く、正確に理解していく。そんな中で、毛色の違う授業がありました。それが「法哲学」でした。
まず結論:法を「使う」人こそ、ときどき「法とは何か」に立ち返る価値がある
先に、この記事で言いたいことをお伝えします。法哲学には、大きく二つの柱があります。ひとつは「法とは、そもそも何か」を問う分野(法概念論と呼ばれます。)。もうひとつは「正義とは何か」を問う分野(正義論と呼ばれます)。
法律を仕事で「使う」実務家は、前者の「そもそも法とは何か」を、つい素通りしがちです。でも私は、この問いに立ち返ることには、実務家にとっても確かな意味があると考えています。
ロースクールは「ゲームのルール」を叩き込む場所
まず、実務家の勉強がどういうものかを、正直にお話しします。
ロースクールや司法試験の勉強は、例えるなら、あるゲームのルールを徹底的に体に覚え込ませる訓練です。膨大な条文があり、判例があり、学説があり、それらをどう組み合わせて結論を導くかの「型」がある。それを高速で、正確に運用できるように訓練します。
これは、けっしてバカにできることではありません。むしろ、依頼者の人生や財産がかかっている以上、ルールを正確に使いこなせることは、実務家の一番の土台です。法をいったん「所与の前提」として受け止め、その中で最善の一手を打つ。この技術こそが、プロの仕事です。
ただ、勉強に追われていると、ふと立ち止まる余裕はなくなります。「このルールって、そもそも何なんだろう」と考える暇はない。目の前のゲームをうまくプレイすることで、手一杯になるのです。
でも、毛色の違う授業があった——法哲学
そんな中で、法哲学の授業だけは、明らかに空気が違いました。条文も判例も、直接には出てきません。代わりに問われるのは、「そもそも法とは何か」「正義とは何か」といった、ふだんは立ち止まらない問いです。
法哲学の二本柱
私が受けた授業では、法哲学は大きく二つの領域からなると説明されていました。「法とは何か」を問う法概念論と、「正義とは何か」を問う正義論です。
なお、今日読んだ事典では、この二つに加えて、法解釈方法論も一つの分野として整理されていました。二つに分けるか、三つに分けるか、このあたりの地図の描き方には、論者によって幅があるようです。
正義論は、政治哲学と地続きだった
面白かったのは、二本柱のうち「正義論」のほうは、私が学部(政治学科)で学んだ政治哲学(政治理論)と、かなり内容が重なっていたことです。「何が公正な分配なのか」「自由と平等はどう両立するのか」。こうした問いは、法学と政治学の境界をまたいで、広く共有されています。
法概念論は、法哲学ならではの問いだった
一方で「法概念論」のほうは、政治哲学にはあまりない、法哲学ならではの領域だと感じました。「法とは何か」「悪い法も、やはり法なのか」。こうした問いは、法という現象そのものをまっすぐ見つめる独特の面白さがあります。
その入口として、いまでもいちばん記憶に残っている問いがあります。
「法」と「強盗」は、どう違うのか
その問いとは、こうです。「法による強制と、強盗の脅迫は、いったいどう違うのか」。
想像してみてください。路地で強盗に遭い、「金を出せ、さもないと撃つ」と脅される。あなたは仕方なく財布を渡します。一方、国からは「税金を納めよ、さもないと処罰する」と命じられ、あなたは税を払います。
この二つ、形だけ見ればそっくりです。どちらも「言うことを聞け、さもないと痛い目に遭わせる」という脅し付きの命令だからです。にもかかわらず、私たちは前者を「ただの暴力」と感じ、後者は「従うべきもの」と感じる。この違いは、いったいどこから来るのでしょうか。
法は、単なる「脅し付きの命令」ではない
この問いは、法哲学の古典的な論点です。イギリスの法哲学者ハートは、「法とは、強い者の命令に脅しを添えただけのものだ」という単純な見方では、法の本質はとらえきれないと論じました。
法には、強盗の脅しにはない何かがある。たとえば、あらかじめ定められた手続きを経ていること。人々が従うべきルールとして受け入れていること。特定の誰かの気まぐれではなく、一定の一般性をもっていること。その「何か」を取り出そうとするのが、法概念論という営みだと思います。
なぜ「ゲームをうまくやる人」が、ゲーム自体を問うのか
さて、ここで冒頭の話に戻ります。実務家は、法という「ゲーム」を上手にプレイする訓練を積みます。では、ゲームを上手にプレイできれば、それで十分なのでしょうか。
私は、そうとも限らないと思っています。ルールを速く正確に使えることと、そのルールが何のためにあり、どこに限界があるのかを問えること。この二つは、対立するものではなく、むしろ両輪だと感じるからです。
たとえば、条文の意味が一つに決まらず、解釈が割れる場面。あるいは、既存のルールが現実に追いついておらず、立法の当否そのものが問われる場面。こうしたルールの縁に立ったとき、「そもそも法とは何をするものか」という感覚をもっている人と、もっていない人とでは、見えている風景が違ってくると思います。
まとめ:六法の外側にある問い
法を使いこなすことと、「法とは何か」を問うことは、どちらか一方だけでよいものではありません。ルールを正確に運用する力は実務家の土台であり、その土台の上で、ときどき「そもそも」に立ち返れること。この両方があってはじめて、法とうまく付き合えるのだと思います。六法の外側にある問いは、決して実務から遠い、浮世離れした話ではないのです。
