いい文章を読みたいのか、誰かの人生に触れたいのか
日経新聞の文化面に、「氾濫するAI小説」という特集が出ていた。
星新一賞の受賞作や優秀作の中に、AIを使って創作されたものが含まれていたことが明かされたらしい。それを受けて、ある選考委員の方が次回から辞退するという。
理由はシンプルで、「AIの執筆した文章はもう読みたくない」と。
これはおそらく、「AIが嫌い」という話だけではない。何を、誰が書いたものを読んでいるのかわからなくなることの違和感なのではないか。
突きつめると、いい文章を読みたいのか、誰かの人生に触れたいのか。この2つは似ているけど違う。
星新一のショートショートは、正直かなり不気味だと思う(主観)。でもそれが短編として成立していて、星新一という人間から生まれた作品である。そのことが、作品の意味を支えているのかもしれない。
ところで、星新一のショートショートには、今の生成AIがやっていることに近い題材が登場する作品がある。ドラえもんにも、16巻に「大量の漫画を学習させて最高の漫画を作る装置」が出てくる。
SFが現実に追いついた、とも言えるし、「アイデアで成立する文学」をほぼ再現できる段階に来た、とも受け取れる。予言は実現した。
ただ、そこまで考えていくと、作品を評価しているのか、人間を評価しているのか、わからなくなってきた。選考委員の違和感は、おそらくここにあると感じた。
読み手として:誰が書いたかわからない不安
審査する側として:「人間が書いたもの」を前提とした制度が崩れる
文学の評価軸は、これまで暗黙のうちに「書いた人間ごと評価する」ものだったのかもしれない。AIの登場は、その前提が変わってきた。いっそAIで作った作品を評価し合う賞があったほうがいいなあ。
