第103話 天下分け目の〝数・動・人〟
歴史を大河の流れに譬えるなら、それを堰き止められる者はない。
その残酷さは、三万八千という流れを押し止めたに関わらず、川の流れが変わらなかった一点にこそあり、上田での出来事は大局から見れば、覇者の進む路に〝戸惑い〟という僅かな泥を混ぜたに過ぎない。ただ、この大軍を〝関ケ原〟という歴史の大舞台から排除しただけで、一方の流れに加勢するに至らなかったところに大きな皮肉が潜む。
数日前まで駿河の島田で大井川に路を阻まれていた家康は、水嵩が減るや否や風を切り、泥を弾き、その猛進は時を逃さない。合戦前日には西軍が拠点とする大垣城の目と鼻の先 美濃は赤坂、岡山に陣を敷き、葵の旗印を無数に掲げた。
〝その時〟が迫るのを知る家康は、いつものように落ち着かない様子で爪を噛みながら、
「正純。未だに秀忠からは何の報せもないか?」
と言った。傍らに控える本多正純は、震える声を必死に抑えてこう答える。
「はい。依然、木曽路にて豪雨に見舞われ、足し止めを喰らっているようで御座います」
「くっ・・・あの阿呆め! 真田の小賢しい策に骨までしゃぶられ、あまつさえ天にまで見放されるとは・・・。わしの三万八千を無駄にしおって!」
家康にとって三万八千の不在は、単なる数の欠落ではない。それは、この年五十七歳の彼が、その生涯を懸けて信奉してきた〝盤石なる勝利への算術〟が、音を立てて崩れ去ったことを意味した。
それまでの彼は〝能忍〟という網を張ってその身を守り、確実な勝機だけを読んで巨大になって来た。しかし、計算の外側から攻め寄せる真田の毒は、彼の築き上げた理を嘲笑うかのように、彼を剥き出しの荒野へと引きずり出したのだ。
三万八千という盾を失った今、一人の老将としての意地は、息子の助けに頼る己の心を捨て、ただ〝天命〟という賽を振る事を決めた。この屈辱こそ、彼を覇者へと押し上げようとしたのである。
家康手持ちの兵数は、東軍諸将を合わせて凡そ七万五千。本来であれば十一万数千の必勝を導く筈が、大垣城を囲む西軍は十万───。秀忠軍の欠落は、天下取りにおいて致命的な〝不在〟であった。
しかしこの〝不在〟こそ〝歴史の裁定〟という〝怪物〟を目覚めさせ、〝関ケ原〟という巨大な擂鉢を目前にした徳川家康という男に〝天命〟を与えたと言い換えてもよい。これこそ歴史が用意した〝不在の怪物〟だった。
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ののうノ野
磐城まんぢう書き下ろし小説『ののうの野』を不定期掲載しています。 時は戦国、かつて信州祢津地域に実在した”ののう巫女”集団にスポットを当て…
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