闇 417(母親編)
闇 417(母親編)

2025/12/10 wed
前回の章
セブンスターに火をつける。
天井に向けて大きく煙を吐く。
やめたいのか?
そりゃあできる事なら……。
でも今これを逃すと、もう根底にあるスイッチには手が届かなくなるぞ?
それでいいのか?
今は書けない。
それはいい。
しかしここを思い出せなければ、本当に負け犬のままだ。
より細部へ。
より深部へ。
より根底へ。
脳を切り替えろ。
四十九日だとラッキーハウスへ嘘をついたろ?
そのツケが来たんだよ。
でも…、また今度スイッチに手が届くところへ来たら……。
次などない。
おまえはまだ賢明でいたいのか?
根底にある狂気。
辿れ。
今じゃないと生涯無理になる。
おまえって本当にスパルタだな。
そんなもの小学一年生から慣れているはずだろ。
まあ慣れているよ、確かにな。
でも何故今このタイミングで?
地獄を潜り抜けたんだろ?
だからだ。
つまり…、今の俺なら堪えられると?
知らんよ、そんなこたあ。
パンドラの箱を開くのか?
いや、悪い。
言い方を間違えた。
開く時が来たのか?
そうだ。
おまえは赤崎隼人の人格か?
それとも神威龍一?
馬鹿だな…、おまえはおまえでしかないだろう。
おまえのはただ偽の名前を被せているだけだ。
ああ、そうだったな。
じゃあ、一つに戻る。
そしてもっと覚悟を持つわ。
うん、それでいい。
多分壊れねえから安心しろ。
他人事だと思って多分だと?
大丈夫だ。
レスラーは何をやられても壊れちゃいけねえ。
師の教えだろ?
ああ、教えだ。
人生はチャレンジだ。
ああ、チャレンジだ。
よし、スイッチ押すからな……。
パパ、ママ……。
「何で僕を産んだの?」
死ぬまでに、一度でいいから聞いてみたい。
まだ自分の事を「僕」と呼んでいた時代。
俺は、男三兄弟の長男『岩上智一郎』として生まれた。
本家の初孫である。

近くの距離には親戚もたくさんいた。
だから当然色々な人に可愛がられる。
「智ちゃん」
みんなそう呼びながら、満面の笑顔で優しく接してくれた。
幼き頃の写真を見ると、非常にあどけない顔をしている。
この当時はまだこの先にある未来など知らず、幸せで無邪気だった。

二歳の時に弟の徹也が生まれ、四歳になって二人目の弟の貴彦が生まれる。
いつからなのだろう。
心の根底に、憎悪が流れている事に気がついたのは……。
己の人生を呪い、身体に流れる血を憎んだ。
何故こうなってしまったのか。
ゆっくりとまぶたを閉じる。
昭和の匂いのする古めかしい映像が、頭の中で映り始めた。
大所帯の家だった。
おじいちゃんにおばあちゃん。
パパ、ママ。
それにパパの妹である伯母さんのピーちゃん。
家では商売もやっていたので、住み込みの従業員もたくさんいた。
通いで働く職人も入れたら、家の中は常に十数名の人間がいた訳である。
住み込みで十年ほど働いていた健ちゃん。
僕が四歳の時、確か二十五歳だったと思う。
その健ちゃんは仕事が終わると、僕の手を引いて近所のデパートに連れて行ってくれた。
行くと必ず健ちゃんは少ない小遣いの中から、僕に色々なものを買ってくれた。
デパートの入り口のそばにある軽トラックを改造して店にしたホットドック屋。
ノーマルなホットドックの他に、長細いハンバーグのような変わったものもあった。
僕はそのハンバーグドックが大好きで、行くといつも食べていた記憶がある。
健ちゃんはパパと従兄弟の関係にあるみたい。
健ちゃんのママは、家のおじいちゃんの妹で春子叔母ちゃんと呼んでいた。
たまに家に来ては笑顔で頭を撫でてくれ、いつもお小遣いをくれる。
健ちゃんは昔本当に頭が良くて開成中学へ行っていたと聞く。
頭が良過ぎてある日精神に異常をきたしたと叔母さんのピーちゃんから聞いた。
家の目の前には川越日高線の県道を挟み、二階建てのボロい木造の映画館『ホームラン』があった。
伯母さんの話によると、僕はいつも不思議そうな顔をしながら窓際に立ち、ジッと映画館を眺めていたそうだ。
まだ二歳ぐらいの頃らしい。

後ろから「智ちゃん」と背中を叩くと、目玉がこぼれてしまうのではないかというぐらい大きな目をしていたようで、いつも誰かしら背中を軽く叩いていた。
親戚の京子伯母さんは、僕と会うとそう目を細めながらよく言っていた。
三年保育の幼稚園に通うようになると、友達が一気に増える。
家の周りは商店街ばかり。
だから商売人の子供が園児の中で、三分の二は占めていた。
パン屋の息子やお菓子屋の娘、本屋の娘などが羨ましくて仕方がない。
だって毎日おいしい菓子パンを好きなだけ食べられたり、好きなだけ漫画を読めたりできるのだから。
レコード屋さんや薬屋さん、着物屋にガラス屋さんの子供もいる。
ラーメン屋の娘や呉服屋の息子だっていた。
同級生の家だけで、ほとんどの商売が集まるぐらいの環境。
そんな僕の家はクリーニング屋さん。
洗濯代などもちろん一切掛からない。
大きくなってから初めてそのありがたみが理解できるようになったが、幼い僕はいつも友達の家を羨ましがってばかりいた。
目の前の映画館ホームランは、僕にとって身近な遊び場だった。
そこで働くおじさんたちは、僕を見かけると笑顔で駆け寄り、抱っこしたまま中に連れていく。
いつも二階席の一番前に座らせてくれ、僕は何の映画か内容も分からずただスクリーンをジッと眺めていた。

酒井というおじさんはアンパンとコーラの入ったビンをいつも僕に手渡し、頭をゴシゴシと撫でてくれる。
今思えばその酒井のおじさんは、自分の小遣いで買ってくれていたのだろう。
ようするに僕は非常に可愛がられていた訳だ。
そんな状況でいたものだから、高校を卒業するまで、映画を見るのに料金を払った事が一度もない。
幼稚園の担任の先生とも非常に仲が良かった。
先生は大の映画好きだったので、僕は前の映画館に行き、ポスターやパンフレットをくれるようねだる。
映画館のおじさんはニッコリ笑って、快くプレゼントしてくれた。
僕はもらったものを先生に全部あげた。
先生は顔をほころばし、お返しにと別の映画館で上映された洋画のパンフレットを僕にくれた。
他の同世代と比べると、中々恵まれた環境で育ったといえよう。
家の中の従業員やお手伝いさんたちは、幼い僕の事をいつも『坊っちゃん』と呼ぶ。
常に僕は笑顔が絶えなかった。
毎日が楽しくて仕方がなかったのだ。
当時家の二階の一室に、両親と一緒に住んでいた僕。
いつもホームランからは、何かしらの上映している映画の音楽が聞こえてきた。
そんなある日の事だった。
まだ僕が、幼稚園の年長さんぐらいの時。
外をブラブラ歩いていたら、知らないおじさんが声を掛けてきた。
上目遣いにそのおじさんを見ると、優しそうに微笑んでいる。
「おじさん、誰?」
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