物語におけるリアリティとは何か──表面的リアリズムとの違いを考える
リアリズムとリアリティはどう違うのか
「リアルな物語」と聞くと、多くの人は「現実に近い物語」を思い浮かべるでしょう。例えば、実在の歴史を舞台にしていること、衣装や建築が史実に忠実であること、あるいは暴力や戦争が生々しく描かれていることは、「リアル」であると評価されやすい要素です。
しかし、私はこうした要素だけでは、その作品にリアリティを感じることはできません。たとえ舞台が現実的な外観を持っていても、登場人物が世界の条件から自由であり、物語の都合に合わせて問題が簡単に解決してしまうなら、「この人物は本当にこの世界で生きている」という実感は生まれません。
逆に、舞台が完全なファンタジーであっても、私にとって強いリアリティを感じる作品があります。雨宮慶太原作及び芦野芳晴監督及び小原信治脚本によるSTUDIO 4℃のテレビアニメ『魔法少女隊アルス』、くら寿司とミヒラ三平の子供向けウェブ漫画『回転むてん丸』、Lab Zero Gamesのゲーム『スカルガールズ』は、その代表的な例です。
これらの作品に共通しているのは、現実の街並みや歴史を再現していることではありません。むしろ、登場人物が自分では簡単に取り除くことのできない条件と制約の中で生きていることです。例えばその条件とは、「歴史や共同体が背負ってきた過去」「民族や言語による境界」「権力や制度による支配」「身体や運命がもたらす制約」「他者から与えられる役割や分類」などです。
そのような条件は物語の途中で都合よく消えることはありません。登場人物はその条件を抱えたまま悩み、葛藤し、ときには抵抗し、ときには受け入れながら生き続けます。私は、このような「世界が登場人物を拘束している」という感覚こそが、物語におけるリアリティだと考えています。
つまり、本稿でいうリアリティとは、「現実そっくりであること」ではありません。それは、登場人物が歴史、制度、共同体、身体、言語、運命といった、自らの意思だけでは変えられない条件の中で生き、その条件が物語の最後まで意味を持ち続けることです。
一方で、そのような条件がほとんど存在せず、歴史や社会が単なる背景美術として扱われる作品を、私は「表面的リアリズム」と呼びます。表面的リアリズムは、現実らしい衣装や建築、政治制度、戦争などを描いていても、それらが登場人物の人生や選択を本質的に規定していなければ、世界に厚みを与えることはできません。
この記事では、この「リアリティ」と「表面的リアリズム」の違いを整理した上で、なぜ現代の物語では表面的リアリズムが繰り返し現れるのか、そして、なぜ私たちは複雑な歴史や構造よりも、単純な断罪や二項対立を描く物語を受け入れやすいのかについて考えていきます。
私にとって物語におけるリアリティとは何か
私は物語におけるリアリティについて、一つの仮説を考えています。それは、私自身が知的障害を伴う自閉症者として、「生きづらさは簡単には消えない」という感覚とともに生きてきたことが、物語の受け止め方にも影響しているのではないかという仮説です。もちろん、自閉症者全員が私と同じように感じるとは思いません。これはあくまでも、私自身の経験から導いた一つの考えです。
私が生きづらさを感じる理由はいくつもあります。その中には、「文脈を消すことが『わかりやすさ』として歓迎されること」や、「現実には複数の言語や文化が共存しているにもかかわらず、中央の標準語や単一の国民文化を前提とした抽象的な規範が優先されること」なども含まれます。
私にとって重要なのは、生きづらさが一人の悪人によって生み出されているわけではないということです。それは社会の制度、歴史、文化、共同体、人々の価値観など、多くの要素が重なって生まれます。そして、それらは一人の人間を倒しただけで消えてしまうものではありません。
だから私は、「悪役を倒した」「断罪した」「排除した」というだけで世界が急に良くなる物語にリアリティを感じることができません。私は、「こんなに簡単な方法で、生きづらさがなくなるはずがない」と感じてしまいます。
この感覚は、鳥嶋和彦が「子供のリアリティ」について語った言葉とも重なる部分があるように思います(鳥嶋・佐藤 2016)。鳥嶋は、子供は大人が思う以上に社会の理不尽を理解しており、「努力すれば全て解決する」という単純な物語では励ますことはできないと述べています。
鳥嶋は、子供は「世界は理不尽である」という現実を知っているからこそ、その現実を誠実に受け止めた物語をリアリティとして受け取るのだと言います。私はこの「リアリティ」という言葉を、「現実そのものを再現すること」ではなく、「人間が現実の条件と制約の中で生きていることを誠実に描くこと」と理解しています。
この考え方は、高畑勲の「現実で生きるための物語」という発想とも通じているように思います(高畑 2019: 268-269)。現実で生きるための物語とは、現実から目を逸らす物語ではありません。現実の苦しさや矛盾を消去せず、それでも人間がどのように生きるのかを考えさせる物語です。
私は近代思想について考えるときにも、同じ違和感を覚えてきました。国家主義は、「単一の民族」「単一の文化」「単一の標準語」という理想像を掲げます。しかし、その理想を実現する過程では、国家内部に存在する多様な言語、地域、民族、歴史は「望ましくないもの」として扱われやすいです。
フェミニズムでも、現実の女性が置かれた多様な立場や共同体の事情を十分に扱わず、「女性」を一つの抽象的な被害者像に還元する議論は珍しくありません。また、共産主義も「人民の解放」という理念を掲げながら、歴史上では文化大革命やポル・ポト政権のように、人命や文化を大きく破壊した事例を生み出しました。
私にとって、これらの近代以降の政治思想と社会運動には共通して「複雑な現実を単純な理念に整理しようとする傾向」があるように見えます。だから私は、近代思想そのものよりも、人間が置かれている条件や制約を丁寧に描こうとする作品にリアリティを感じます。
私は以前から、「国家主義・植民地主義・文明化の使命は、宗主国の内部でも外部でも、新たな『野蛮』を発明し続ける」と考えてきました。そのため、野田サトルの青年漫画『ゴールデンカムイ』、トム・ムーアとロス・スチュワート共同監督及びウィル・コリンズ脚本によるカートゥーン・サルーンの長編アニメ映画『ウルフウォーカー』、S・S・ラージャマウリ監督及びラージャマウリとV・ヴィジャエーンドラ・プラサード共同脚本によるDVVエンターテインメントの長編実写映画『RRR』のように植民地支配を描く作品を読んでも、「植民地主義はどこから生まれたのか」「宗主国の内部ではどのような文化的序列が形成されていたのか」という部分が十分に描かれないと、私は物足りなさを感じます。
私にとってリアリティとは、「被害者」と「加害者」を二つに分けることではありません。リアリティとは、異質さ、苦しさ、文化的否定、共同体の境界が世界のどこか一ヶ所だけに存在するのではなく、歴史の中で繰り返し現れ、人々を拘束し続けることです。リアリティとは、そのような世界の中で、人間がどのような選択をするのかを描くことです。
だから私は、『回転むてん丸』、『魔法少女隊アルス』、『スカルガールズ』、プロスペル・メリメの中編小説『カルメン』、大窪晶与の漫画『ヴラド・ドラクラ』にリアリティを感じました。これらの作品では、欠落、歴史、民族、共同体、権力、運命といった条件が最後まで消えません。その条件の中で、登場人物は苦しみ、迷い、それでも他者との関係や自分自身の倫理を選び取ろうとします。
一方で、トマトスープの漫画『天幕のジャードゥーガル』や白浜鴎の漫画『とんがり帽子のアトリエ』では、「知識」「階級」「民族」「障害」「トラウマ」といった重い題材が世界を支配する持続的な条件として十分に機能していないように感じました。そのため、私にとっては表面的なリアリズムに留まり、リアリティには届いていないように思われました。
私にとって物語のリアリティとは、「現実に似ていること」ではありません。「歴史、制度、共同体、身体、言語、運命といった、自分では取り除けない条件が世界の中に存在し続けること」「その条件を消去せず、その中で人間がどのように生きるのかを描くこと」こそが、私にとってのリアリティなのです。
なぜ物語におけるリアリティは歓迎されないのか
ここまで、私は「物語におけるリアリティ」とは、登場人物が歴史、制度、共同体、身体、言語といった、自分では取り除けない条件と制約の中で生き続けることだと述べてきました。しかし、大衆文化では、このようなリアリティは必ずしも歓迎されません。
もちろん、リアリティを重視した作品は存在します。しかし、市場で繰り返し人気を集める物語を見ると、「悪を倒して終わる」「世界は善と悪に分かれている」「世界観と登場人物の具体的な差異、内面、文脈が省略される」といった構造が何度も現れます。なぜ、このような物語が繰り返し作られるのでしょうか。私は、その理由は少なくとも三つあると考えています。
第一に、人は「問題が解決した」という感覚を求めるからです。リアリティを重視する物語では、苦しみは簡単には終わりません。歴史も共同体も制度も残り続け、人間はその条件の中で生きていかなければなりません。一方、多くの娯楽作品では、「悪役を倒した」「敵を断罪した」といった出来事が、問題そのものの解決として描かれます。その方が、読者は強い達成感や安心感を得やすいです。
しかし現実では一人の悪人がいなくなっても、文化的否定がなくなるわけではありません。制度も歴史も共同体も残り続けます。だから私は、断罪そのものよりも、「なぜその悪が生まれたのか」「その悪を支えている構造は何か」という問いの方にリアリティを感じます。
第二に、リアリティは文脈を必要とします。一人の人物を理解するためには、その人の歴史、共同体、言語、家族、制度、地域、時代など、多くの背景を説明しなければなりません。例えば国家主義について語るなら、標準語政策、教育制度、地域文化、階級、民族、植民地主義といった複数の要素が重なっています。
しかし国家主義の文脈を丁寧に説明するには、多くの紙幅と読解の負担が必要になります。一方で、「帝国が悪い」「悪役が悪い」と言いきってしまえば、物語は非常に理解しやすいです。つまり、リアリティは文脈を必要としますが、表面的リアリズムは記号だけでも成立しやすいのです。
第三に、人間は「役割」の方が理解しやすいです。現実の人間は、一人の中に矛盾を抱えています。被害者でありながら加害者になることもあります。弱者でありながら権力を持つこともあります。共同体を愛しながら、その共同体に苦しめられることもあります。
しかしそのような複雑さは、ごっこ遊びとなりきりの対象にはなりにくいです。「勇者」「悪役」「可哀想な被害者」「革命家」「支配者」といった明確な役割の方が、自分を投影しやすく、物語の構造も理解しやすいです。その結果、人間は「歴史を背負った存在」ではなく、「役割を演じる存在」として描かれやすくなります。
ごっこ遊びとなりきりが極端になると、人物の歴史、共同体、条件、制約よりも、「どの役を演じるか」が重要になってしまいます。すると、「悪とは何か」を考えるよりも「悪役を倒すこと」が目的になり、「差別とは何か」を考えるよりも「差別する人物を処罰すること」が目的になり、「共同体とは何か」を考えるよりも「理想の共同体を宣言すること」が目的になってしまいます。
私は、この構造は物語だけに存在するものではないと思っています。国家主義、植民地主義、革命思想、社会運動など、近代以降の様々な思想や言説にも、「善と悪」「文明と野蛮」「自由と抑圧」といった二元論が繰り返し現れます。もちろん、それらの思想が全て同じという意味ではありません。しかし、複雑な歴史や共同体の内部差異を単純な役割に整理する傾向は、共通して見られます。
だから私は、「誰が悪いのか」という問いよりも、「なぜその構造が生まれ、なぜそれが繰り返されるのか」という問いに、より大きなリアリティを感じます。リアリティとは、人間が安心できる世界を描くことではありません。リアリティとは、問題が簡単には終わらず、歴史も共同体も条件も消えない世界の中で、それでも人間はどのように生きるのかを問い続けることだと、私は考えています。
なぜ断罪・ざまあ展開では悪は問われないのか
私は、断罪そのものを否定したいわけではありません。「断罪」とは本来、悪が何であるかを明らかにし、その責任を問う営みです。そこでは、「何が悪なのか」「どのように悪なのか」「なぜ悪なのか」「その悪は誰によって生み出されたのか」「その悪は誰によって維持されてきたのか」という問いが前提になります。
つまり断罪とは本来、「悪を理解すること」の延長線上にあります。しかし、多くの断罪・ざまあ展開では、この順序が逆転します。まず「この人物は悪である」という結論が提示され、その人物が裁かれること自体が物語の目的となります。
その結果、読者は社会や共同体の内部論理を観察するよりも、「悪人が罰せられた」という即時的カタルシスを受け取ることになります。もちろん、このような構造は娯楽作品として理解しやすく、感情的にも満足感を得やすいです。しかしその一方で、「悪」はしばしば個人に集中し、その人物を生み出した思想、共同体、制度、歴史的背景を検討しないまま物語は終わります。私は、この点にリアリティの欠落を感じます。
例えば尾田栄一郎の少年漫画『ONE PIECE』のワノ国編では、黒炭オロチの暴政は明確に断罪されます。しかし、黒炭家という共同体がどのような歴史認識を形成し、それがどのように次世代に継承されたのかは、体系的には描かれません。
ワノ国編の回想では、黒炭ひぐらしが孤児となったオロチに「黒炭家こそ正統な支配者だった」「光月家がお前たちから全てを奪った」という物語を語り、家の受難を復讐の神話に変換します。しかし、最終的に断罪されるのはオロチという一人の暴君であり、「奪われた家の名誉を絶対化し、子孫に復讐を継承する思想」そのものではありません。悪は共同体の歴史ではなく、一人の人格に収束します。
芥見下々の少年漫画『呪術廻戦』でも、私は同じ構造を感じました。禪院家は血統主義、能力主義、家制度、女性差別といった重い主題を提示します。しかし、それらは社会制度として分析されるよりも、「禪院家は腐敗した共同体である」という印象を与える舞台装置として機能することが多いです。
例えば術式を持たない男性の集団である躯倶留隊の地位、庶子や離反者の子の扱い、婚姻による地位調整、女性内部の権力構造などは十分に説明されていません。そのため、「なぜ禪院家はこのような制度を維持してきたのか」という問いよりも、「禪院家は倒されるべき悪である」という結論が前面に出ます。読者が最も強く体験するのは、禪院真希が禪院家を殲滅する場面の即時的カタルシスです。
石ノ森章太郎原作及び杉原輝昭監督及び香村純子脚本による東映の特撮テレビドラマ『仮面ライダーガヴ』でも、私は似た印象を受けました。ストマック社は、異世界の人間を拉致して闇菓子へ加工するという植民地主義的な企業体制を築いています。
しかし、ストマック社の体制を構想した創立者ゾンブ・ストマックと、技術的基盤を築いたデンテ・ストマックの責任はほとんど掘り下げられません。一方で、主人公ショウマを虐待した兄姉と父ブーシュ・ストマックは断罪の対象となります。つまり、制度や思想の設計者よりも、主人公と直接対立する人物の方が強く裁かれるのです。
これらの作品では、家制度、企業、帝国、民族共同体などが舞台装置として導入されています。しかし、「その共同体がどのような理念によって成立したのか」「どのような歴史認識を共有しているのか」「どのように次世代へ価値観を継承しているのか」「誰が利益を受け、誰がその体制を支えているのか」という内部論理は、相対的に背景へ退いてしまいます。その代わりに、「悪」は個人の人格へ集中します。
私は、この構造そのものが現代の断罪・ざまあ展開の特徴なのではないかと考えています。悪を一人の人格へ集約すれば、その人物を倒すことで物語は完結します。しかし、悪を制度、思想、共同体、歴史との関係の中で描くなら、一人の悪人を倒しただけでは問題は終わりません。現実の社会では、多くの問題は後者です。
だから私は、「誰が悪いのか」という問いよりも、「悪はどのような構造から生まれ、なぜ繰り返されるのか」という問いを重視する作品により強いリアリティを感じます。私にとって、断罪とは悪を終わらせる儀式ではありません。それは悪を理解し、人間や共同体の成り立ちを考え続けるための出発点なのです。
なぜ国家主義は帝国と植民地の二元論に単純化されるのか
ここまで私は、物語では「悪」が個人に集中し、その背景にある制度や思想が見えにくくなることを述べてきました。私は、この構造は国家主義と植民地主義を扱う物語にも繰り返し現れるように思います。もちろん、植民地支配そのものを描くことには大きな意味があります。植民地支配によって、多くの人々の文化や生活が破壊されてきたことは歴史的事実です。
しかし私は、植民地主義を理解するためにはその結果だけではなく、「なぜ宗主国は自らを『文明』と信じることができたのか」という過程も同じくらい重要だと考えています。私がこれまで論じてきたように、国家主義と植民地主義は、植民地だけで「野蛮」を発明したわけではありません。
近代国家の形成の過程では、宗主国の内部でも「中央の標準語を唯一の正統とする規範」「地域文化の周縁化」「方言と地域言語への抑圧」「文明と野蛮という文化的序列」が繰り返し作られてきました。つまり、宗主国の内部で文化的序列が形成されます。その文化的序列が「文明」という理念に整理されます。その理念が植民地支配を正当化します。
私にとって植民地主義とは、この連続した過程として理解されるものです。しかし多くの物語では、この連続性が途中で切り取られます。例えば『ゴールデンカムイ』は、北海道と樺太を舞台に、日本とロシア帝国による支配、そしてアイヌをはじめとする諸民族の文化と抵抗を描いています。しかし、植民地主義を可能にした日本本土の国家形成──文明開化、西洋化、学校教育、標準語政策、方言札による言語統制といった過程──は、物語の中心には置かれていません。植民地は描かれますが、植民地を生み出した国家の内部論理は背景に退きます。
『ウルフウォーカー』でも、私は似た印象を受けました。『ウルフウォーカー』はイングランドによるアイルランドの支配を描き、人間と自然、支配と抵抗という対立を印象的に表現しています。しかし、主人公ロビンと父ビルは、イングランド北部出身の入植者という歴史的背景を持ちます。
実際のブリテン諸島では、階級差、地域差、言語差、宗教対立、ゲール文化に同化したノルマン系オールド・イングリッシュの存在など、多様な内部構造が存在していました。標準英語が優位となる過程で、ウェールズ語、ゲール語、スコッツ語などは「望ましくない言語」として周縁化されていきます。
しかし『ウルフウォーカー』では、ブリテン諸島の内部構造よりも、「イングランド」と「アイルランド」の対立が前景化されています。そのため私は、「もしロビンの抑圧と疎外感を描くのであれば、彼女自身が属するイングランド社会の内部の階級差、地域差、言語差まで描けば、より立体的な植民地主義の理解に繋がったのではないか」と感じました。
『RRR』でも同様です。『RRR』はイギリス帝国の暴力、人種差別、「文明」を掲げる帝国の傲慢さを力強く描いています。しかし、「イギリス帝国はなぜ自らを文明と信じることができたのか」という問いには、それほど踏み込まれません。
標準英語を唯一の正統とする規範、地域言語への文化的圧力、ブリテン諸島内部の文化的序列といった歴史は、物語の中心には置かれていません。そのため私は、植民地主義という結果は描かれていても、その結果を生み出した宗主国側の歴史的条件については、更に考えてみたいという思いが残りました。
ここで私が述べたいのは、「この作品にはこれが欠けている」ということではありません。むしろ、植民地主義を論じる言説では、「帝国」と「植民地」という対立が物語の軸になりやすい一方で、帝国内部の文化的序列や国家形成の過程は相対的に背景へ退きやすいという構造そのものです。
私は、この構造もまた、第4章で論じた「悪を個人へ集中させる物語」とよく似ていると考えています。断罪型の物語では、一人の悪役が倒されれば物語は終わります。植民地主義を二元論として描く物語では、「帝国」と「植民地」の対立が解決されれば、物語は終わります。
しかし現実の国家主義とは、「主人公を攻撃する外部の敵」であるだけではありません。それは「理想の国民像」を定め、その基準によって人々を評価し、標準から外れた文化、言語、地域、共同体を「劣ったもの」と位置付け続ける仕組みでもあります。
だから私は、国家主義のリアリティは植民地だけではなく、宗主国内部にも存在すると考えています。私にとって国家主義とは、「帝国」と「植民地」の対立だけでは説明できるものではありません。それは、文化的否定と序列化が国境を越えて連続し、宗主国の内部でも外部でも繰り返される歴史的過程です。そして、そのような「消えない条件」を描こうとする物語にこそ、私は強いリアリティを感じるのです。
人は条件の中で生きる
この記事では、「リアリティ」と「表面的リアリズム」の違いについて考えてきました。私がここで言うリアリティとは、現実と同じ世界を描くことではありません。登場人物が自分の意思だけでは取り除くことのできない条件と制約の中で生き、その条件が最後まで物語の意味を持ち続けることです。
私は、この視点から様々な作品を見てきました。『回転むてん丸』では、登場人物たちは欠落、運命、与えられた役割を抱えたまま生きています。彼らは「運命から自由になる」ことではなく、その運命とどう向き合うかを問い続けます。
『魔法少女隊アルス』では、世界は血統、民族、文化、性別、能力によって人々を分類します。しかし、物語が描くのは、異質な存在を永遠に排除することはできないという現実です。世界がどれほど境界線を引こうとしても、人と人との繋がりは、その境界を越え続けます。
『スカルガールズ』では、権力は共同体や文化に深い傷を残します。スクィグリーの一族が受けた迫害は一人の悪人の気まぐれではなく、支配を誇示する権力の論理として描かれます。彼女自身もその傷を抱え、他者を憎しみだけで判断することを拒みます。
『カルメン』では、民族、言語、歴史は登場人物から切り離せません。ドン・ホセはバスク人としての地域的・言語的疎外を、カルメンはロマとしての民族的・宗教的疎外を背負い続けます。それらは物語を彩る記号ではなく、人物の行動や価値観を形成する条件そのものです。
『ヴラド・ドラクラ』でも同じです。ワラキアという小国はオスマン帝国とハンガリー王国という二つの大国の狭間に置かれ、その地政学的条件から逃れることはできません。ヴラド3世もまた、その条件の中で決断し続けるしかありません。
これらの作品に共通しているのは、「主人公が自由だから魅力的」なのではないということです。むしろ、自由になれない条件があり、その条件を消すことも忘れることもできないからこそ、人間が何を選び、どのように他者と関わるのかが物語になるのです。
一方で、私が「表面的リアリズム」と感じた作品では、歴史、共同体、制度、民族、知識、階級といった重い題材は導入されるものの、それらが登場人物を拘束し続ける条件として十分には機能していないように思われました。
もちろん、一つの作品があらゆる歴史や制度を描き切ることはできません。また、娯楽作品では、爽快感やテンポを重視する表現も一定の需要があります。それでも私は、物語が「悪役を倒したから終わり」「革命が成功したから終わり」「帝国を倒したから終わり」という形で閉じるとき、そこに現実のリアリティとの隔たりを感じます。
現実では、人間は制度や共同体、歴史、言語、身体、文化といった条件から完全に自由になることはできません。だからこそ、人はその条件を理解し、ときに受け入れ、ときに抵抗し、ときに他者との関係を築きながら生きていきます。私は、その過程こそが物語の中心であるべきだと考えています。
この記事では、「リアリティ」という言葉を、現実そっくりという意味では用いませんでした。私にとってリアリティとは、「人は取り除けない条件の中で生きる」という事実を見失わず、その条件の中で人間がどのような選択をし、どのような関係を築き、どのような意味を見出そうとするのかを描くことです。
だから私は、これからも物語を読むとき、「この世界にはどのような条件が存在するのか」「登場人物は何を背負って生きているのか」「その条件は物語の最後まで意味を持ち続けているのか」という問いを大切にしたいのです。それが私にとって、「リアリティのある物語」を見つけるための一つの基準なのです。
参考文献
高畑勲(2019)『アニメーション、折りにふれて』(岩波現代文庫 文芸 309)岩波書店.
鳥嶋和彦・佐藤辰男(2016)「【全文公開】伝説の漫画編集者マシリトはゲーム業界でも偉人だった! 鳥嶋和彦が語る『DQ』『FF』『クロノ・トリガー』誕生秘話」電ファミニコゲーマー, https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/torishima/5
