23.古代ギリシャの嘘⑥
画像は以下のサイトから転載。
前回から、ギリシャ哲学と哲学者たちについてお送りしています。
ソクラテス以前の哲学者たちはほとんどがイオニア人で、その哲学にはゾロアスター教、ペルシャ、アジア的な影響が見られます。そしてバビロン征服後のペルシャに影響を与えたのは、カルデアのマギと邪教ユダヤ人でした。
イオニア人はヒクソスと同一視され、ヒクソスは出エジプトの際にギリシャに向かったユダヤ人と同一視されていました。
哲学者になるには
プリニウスは『博物誌』にこう記しています。
ギリシャの作家の中にも、人体の臓器や部位の一つ一つの特徴的な味を拡大解釈し、爪の切り口まで研究している者が少なからずいる! まるで、人間が自分自身を野獣に仕立て上げ、病気を避けるために採用した治療法そのものによって病気にかかることが、健康の追求と見なされる可能性があるかのように。ヘラクレスよ、最も正しいことは、そのような試みがすべて無駄であるならば、かれは治療に失望するということである! 人間の内臓を調べることは、不敬な行為とみなされる。ではそれを食らうことはなんであろうか?
言ってみよ、オスタネス。このような行為を最初に考案したのはだれか。わたしが告発するのは、あなたである。人間のあらゆる掟を根底から覆す者、この怪物の発明者よ。
わたしの知るかぎり、魔術について書いた最初の人物で、その著作が現存しているのは、ペルシャ王クセルクセスのギリシャ遠征に同行したオスタネスである。かれが最初に、いわばこの怪しげな術の芽を広め、ペルシャ人が通過した世界各地をこれに染めたのである。……このオスタネスが、ギリシャ人に魔術への憧れだけでなく怒りを抱かせたことは、疑いようのない事実である。しかし同時に、最も古い時代には、ほとんど必ずといっていいほど、この科学の一分野にこそ、名声と文学的名声の最高点が求められていたことも指摘しておきたい。ピュタゴラスも、エンペドクレスも、デモクリトスも、プラトンも、その知識を得るために海を渡った。かれらが最も偉大な神秘の一つとしていたのはこの技術であった。
オスタネスはゾロアスターの弟子とされています。
またオスタネスは、プリニウスによると、サラミスの海戦でクセルクセスが破れたあと、デモクリトスの師となるためにイオニアに残りました。

このデモクリトスは、カルデア人の科学を研究するためにバビロンを訪れています。そして『カルデア人の言説』『バビロンの神聖な文書について』を著しました。
またデモクリトスは、自分の弟子に、エジプトやペルシャへの旅を勧めたようです。デモクリトスは偉大な科学者として知られていますが、失われた多くの著作の中で、ペルシャの魔術を伝えていた可能性があります。
先に見たとおり、プリニウスは哲学者たちの「留学」について伝えていますが、ヘロドトスも『歴史』でこう記しています。
キュロスの息子カンビュセスがエジプトに侵攻したとき、多くのギリシア人が軍とともにやってきた。ある者は当然のように交易のために、またある者はこの国そのものを見るために。
シケリアのディオドロスはこのように説明しています。
これらのことを説明したところで、古代エジプトに旅したギリシャ人の中で、この国の法律と科学を理解するために、どれだけの賢くて学識のある人々がいたかを明らかにする必要がある。エジプトの神官たちは、聖典の記録から、オルフェウス、ムサエウス、メラムポデス、ダイダロス、詩人ホメロス、スパルタのリュクルゴス、アテネのソロン、哲学者プラトン、サモスのピュタゴラス、数学者エウドクソス、アブデラのデモクリトス、キオスのオエノピデスが皆、エジプトに来たと語っている。
ある場合にはかれらの彫像を、またある場合にはかれらの名を冠した場所や建物を示し、これらの人物がそれぞれ追求した学問の分野から証拠を提示し、ギリシャ人のあいだで賞賛されたものはすべてエジプトから借用されたものであると論じている。
というのも、オルフェウスは、狂宴の儀式に関わるもの、オルフェウスが上へ下へとさまよい歩くこと、そして地獄の寓話に関わるものなど、宗教的儀式や儀礼のほとんどを持ち込んだというからである。
上へ下へ、というのは、冥界下りのエピソードです。
オシリスの儀式と儀礼は、バッカスの儀式とあらゆる点で一致し、イシスとケレスの儀式は、名称の違いだけで、同じものである。……オルフェウスによってギリシャ人に伝えられたホメロスは、かれ(オルフェウス)を模倣してそれを自分の詩に挿入した。
「この世にオリジナルの創作物は存在しない」といわれますが、ギリシャ哲学にもしっかりと当てはまります。
なので、「集合的無意識」やら「人間の思考にはある共通点が内在されているのか」などと考え出すと、どんどん答えから遠ざかっていくことになります。
エジプトについて付け加えると、ヘレニズム時代以降のエジプト人は、都市アレクサンドリアが大発展したせいで、自分たちこそがすべての宗教的文化的ルーツである、とかんちがいしていました。
ルーツはもちろんニムロデ、セミラミスです。オカルトという意味でのルーツは、バビロン捕囚後にカバラを創成した邪教ユダヤ人とマギのカルトです。
ピュタゴラス
紀元後三世紀の哲学者ポルピュリオスの『ピュタゴラスの生涯』によると、ピュタゴラスの父はティルス(レバノン)生まれのフェニキア人でした。

父は商売のためにサモス島に移り住み、そこでピュタゴラスが産まれます。
ピュタゴラスははやくから学問に励んでいましたが、のちにティルスに赴き、そこでカルデア人に入信し、その教義を身につけます。
かれの知識については、エジプト人、カルデア人、フェニキア人から数学の知識を学んだといわれている。昔から、エジプト人は幾何学に優れ、フェニキア人は数と比率に優れ、カルデア人は天文学の定理、祭式、神々の崇拝に優れていたからである。ほかにも、かれはマギから人生の歩みの秘密を受け取り、学んだ。
エウドクソスは『大地の記述』の第二巻で、ピュタゴラスは最も純粋な修行を行い、すべての流血と殺生に衝撃を受けたと書いている。
この「流血と殺生」は、入信の儀式です。ソフィストのアンティポンは、著書『高潔な人間について』の中で、ピュタゴラスがエジプトにいたときの忍耐強さを称賛しています。
ピュタゴラスはエジプトの神官の制度を知りたいと思い、エジプト王に手紙を書きます。紆余曲折あったのち、古代テーバイに送られるのですが、そこの祭司たちは入信させるのに乗り気ではなかったようで、どうせ音を上げるだろうと、ギリシャ人の戒律とはまったく異なる非常に厳しい戒律を課しました。
ピュタゴラスは容易に試練をこなし、認められます。テーバイの祭司はピュタゴラスに、神々に生贄を捧げ、祭司のあらゆる学問に精通するよう勧めました。祭司に認められ、昇格を促されたわけです。
その後イオニアに戻ると、ピュタゴラスはセミサークルと呼ばれる学校を開きました。洞窟で哲学の勉強をし、昼夜を問わず仲間と語り合ったそうです。
ポルピュリオスによると、バビロンでは、ゾロアスターの弟子ザラトゥスから教えを受け、ゾロアスター教の最高の秘儀にも入門もました。
邪悪なイニシエーションに合格すると、こうしてすべてが約束されます。もちろん生まれがよく裕福でなければなりません。
ピタゴラスイッチの人も、だいぶ印象が変わったのではないでしょうか。
ピュタゴラスはフェニキアにも旅行をし、イアンブリコスによると、そこでモーセの子孫である預言者たちや、現地の象形学者たちと会話をしたとのことです。
ユダヤ人歴史家のヨセフスは、ピュタゴラスについてこう記しています。
かれがわれわれの教義を知っていただけでなく、その信奉者であり賞賛者であったことは明らかである。
(カリフォンという仲間の一人が)こう付け加えた。かれ(ピュタゴラス)は、ユダヤ人とトラキア人の教義を模倣してこのようなことを行い、……ピュタゴラスはユダヤ人の多くの法則を自分の哲学に取り入れたと、じつにまことしやかに語っている。
次回はついにプラトンです。
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