「いつか」を手放せない私たちへ
朝は、いつも時間との追いかけっこです。
昨夜、もう少し早く寝ればよかったという後悔。
そんなものは、目覚ましのスヌーズを2度叩いた時点で、どこか遠くへ消えてしまっています。
洗面所の鏡には、理想とは程遠い寝癖と格闘する自分の姿。
「丁寧な暮らし」なんていう言葉は、子供たちのおもちゃが散らばったリビングの湿った空気の中に溶け込んで見つからないのです。
台所の棚の奥には、先週末に「今度こそ」と奮発して買った、少し高い珈琲豆の袋があります。
密閉されたその袋からは、わずかに芳醇な、どこか都会的で知的な香りが漏れ出しています。
本当は、それを挽いて、ゆっくりとお湯を注ぎたい。
蒸らされた粉がふっくらと膨らむのを、静かに眺めていたい。
けれど。
私の手が伸びたのは、一番手前にある、いつものインスタントコーヒーの瓶でした。
蓋を開け、粉をマグカップに落とし、電気ケトルのお湯を注ぎます。
そこに広がるのは、憧れていた豊かな香りではありません。
どこまでも現実的で、手慣れた、日常の匂いです。
理想と現実の「入場料」
なぜ私たちは、使わないと分かっていても、また「丁寧な道具」を欲しがってしまうのでしょうか。
キッチンに整然と並んだ、重厚なミル。
結局一度も使ってない、お洒落な麻のエプロン。
そして、じっとこちらを見つめている、棚の上の珈琲豆。
心理学の世界には、 アイデンティティ・バイイング という言葉があるようです。
私たちは機能を買っているのではなく、「その道具を使いこなしている自分」という看板を、必死に買い集めているのだそうです。
でもそれは、単なる「見栄」とか「無駄遣い」という言葉で片付けるには、少し不十分な気がしています。
お店でその豆を選び、レジでお金を払うあの瞬間。
私たちは、確かに一瞬だけ「憧れの世界」のチケットを手にしています。
いわば、それは未来の自分への 入場料 のようなものなのです。
「これを買えば、明日の朝は少しだけ、今とは違う自分になれるかもしれない」
そんな微かな、けれど確かな予感に、私たちは対価を支払っています。
諦めないための「回数券」
もちろん、私たちの多くは、そのチケットをすぐに使い切ることはできません。
現実は、いつも私たちが用意した脚本を、無惨に踏み荒らしていきます。
仕事から帰れば掃除機をかける気力さえ残っていませんし、夜中に目が覚めれば、明日の献立に頭を悩ませてしまいます。
そんな泥臭い日々の中で、棚の上の珈琲豆は、静かに「保留」され続けています。
けれど、不思議なことがあります。
その豆がそこにあるだけで、私たちは「自分を完全に諦めなくて済む」のです。
インスタントコーヒーを啜りながら、棚の豆と目が合います。
「今朝は無理だった。でも、明日の朝なら、あるいは次の日休みなら」
そう思えるだけで、灰色の日常に、小さな「窓」が開くような気がするのです。
あの豆は、飲まれる瞬間を待っているのではないのでしょう。
「いつか」という可能性そのものを、この慌ただしい部屋の中に、そっと繋ぎ止めてくれているのです。
正直に言えば、もし今日あの豆を挽いてしまえば、明日からはもう、この「丁寧な暮らしをする人間」という優雅な誤解を、自分に対して抱き続けられないからかもしれません。
不器用な執着の正体
合理的に考えれば、飲まない豆を買うのは間違いなのでしょう。
劣化する前に誰かにあげるか、最初から買わなければ、財布の中身も少しはマシだったに違いありません。
でも、私はそんな「不合理な物欲」こそが、人間を人間たらしめている気がしてならないのです。
理想に届かない自分。
それでも理想を「予約」し続ける、往生際の悪い自分。
一週間の終わりに、ふと思い出します。
あの豆を袋ごと掴んだ時の、手のひらに残った確かな重み。
今夜も、豆を挽く余裕はないかもしれません。
けれど、明日もまたその豆が、騒がしい朝を見守ってくれています。
それだけで、私の毎日は、ただのルーティンではない何かに、近づいている気がしています。
理想に敗北し続けて、なお新しいチケットを欲しがる私たち。
その、言葉にするには少し不自由な、けれど真っ直ぐな執着はなんだかとっても不思議です。
▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ
「理想の自分」という看板を買い集めてしまう心理は、買い物の瞬間の「魔法」に似ているのかもしれません。
目に見えない未来を、形あるもので「予約」しようとする執着。私たちが桜の下で感じる高揚感の正体も、もしかしたらこの豆と同じなのかもしれません。
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