地方出身者の「サブカル飢餓感」:私が永遠に喪った《同時代性》と、その代わりに得た《外部視点》【ひとりごと】
この飢餓感は、たぶん一生治まらない。
治まってはいけない。
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■ 夢の中で、手に入らなかったものに悶えている
昨夜、妙に生々しい夢を見た。
雑誌『ニュータイプ』をめくりながら歯ぎしりしている、中学生の自分。
そこに載っているのは、やたら煌びやかなアニメの世界。ガンダムW、新世紀エヴァンゲリオン、天空のエスカフローネ、カウボーイビバップ、TRIGUN、スレイヤーズ、機動戦艦ナデシコ、他にもたくさん。とても書ききれない。
胸を高鳴らせた。
でも、そのどれもが、私の故郷である九州の片田舎では放送されていなかった。
なぜ自分の住んでいる場所ではやってないのか。
なぜその世界を体験できないのか。
テレビのリモコンを操作しても、映るのはただ灰色の砂嵐がちらつくチャンネルばかり。
何も得られない、虚無のスノーノイズ画面だ。
理屈ではなく、ただひたすらに悔しかった。
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■ 「知っているのに触れられない」という地獄
当時の自分は、完全に外側にいた。
作品の存在は知っている。
設定も、キャラクターも、調べて理解している。
でも観られない。観られないのに調べている。
観られないものをわざわざ理解しようとしている。こんなに虚しいことがあるのか。
それは「知っているのに参加できない世界」。
当時の雑誌に載っていた「テレビ東京で放送中」の一文は、私にとっては「いくら手を伸ばしても掴めない星」に等しかった。
さらに言えば、この感覚はアニメに限った話ではない。高校生の頃、私はよく雑誌『広告批評』を読んでいた。あの時代のサブカル層にとっては、いわば必読の媒体だ。そこでは優れている、または面白いCMや広告が数多く紹介されていた。
だが、その多くもまた、故郷では放送されていなかった。ここでもまた、同じことが起きていた。
たとえば当時のゲーム業界の覇権で、雑誌では頻繁に見かけたSNK(ネオジオ)のCMも、テレビでは一度も目にしたことがなかった。
知っているのに観られない。
存在は理解しているのに、体験できない。
観たいとテレビのチャンネルをあたっても、そこにあるのはやはり砂嵐、または地方CMだった。
これは単なる情報格差ではない。
もっと直接的で、もっと身体的な欠如だ。
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■ 私が喪ったのは「作品」ではない
現在、私は東京で暮らしている。
故郷に住んでいた頃より歴が長くなった。
大人になった今、あの時に観られなかった作品は好きなだけ、いくらでも観られる。
現代はネットもサブスクもYouTubeもある。
地方と東京の物理的なメディア距離は、昔ほどには意味を持たなくなった。
それでも、どうしても埋まらないものがある。
「リアルタイムで観られなかった」という事実。これはどれだけ時間をかけても取り戻せない。
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■ 《同時代性》という取り返しのつかないもの
アニメ・音楽といったエンタメや広告というメディアは、作品単体で完結するものではない。
●放送されている“その瞬間”
●周囲の人間との共有
●同じ時間を生きている感覚
これらすべてが含まれることで、初めて「体験」になる。つまり私が喪ったのは、作品ではなく《同時代性》の機会と空気だった。
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■ なぜ東京に行きたかったのか
あの頃の私は、いつか東京に住みたいと強く思っていた。まあ大学進学という形で叶ったのだが。親には感謝してもしきれない。
その願いの理由は、便利とか都会だからというよりも、「あの頃に喪っていた、同じ時間を生きたかった」からなのかもしれない。
しかし、東京出身の友人にそんな「地方民の話」をすると、こんなことを言われた。
「大袈裟な。どこもそんなに変わらないよ」
その言葉に違和感を覚えたのは当然だ。
「常にそこにある人」は欠如を認識できない。
私が喉から手が出るほど欲しかったものを、こいつは子どもの頃から当たり前に好きなだけ享受して、その特権を自覚もしていない。
当時の私は本気でそう思い、苛ついた。
そして実際に東京に住んでも、「故郷にいた頃に観られなかった苦い過去」は覆らなかった。
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■ 喉に刺さったままの魚の骨
中学・高校時代に「体験」できなかった作品の記憶は、今もなお強烈に残っている。
それは懐かしさではない。悔しさだ。
魚の骨のように、喉から抜けないまま残り続ける違和感。これは解決されることのない問題だ。
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■ アメリカでも「未参加」という感覚は続いた
高校生の時、私は一年のアメリカ留学で現地のハイスクールに通っていた。
そこでは日本では触れられなかったものにいっぱい出会えた。特に音楽。楽しかった。だが、結局はそれもまた、別の形の「未参加」だった。
雑誌に載っていた日本はほとんど外部であり、いくらそこに住んでいても、いくら楽しくても、アメリカは「期間限定の内部」に過ぎなかった。
どこにも完全には属していない。
さらに皮肉なことに ―― 現地の高校生のほうが、日本のアニメ作品に詳しかった。
「本来の中心にいるはずの自分が、外側にいる」。この感覚はなかなかに鮮烈だった。まさかアメリカにいながら、あの「砂嵐のチャンネル」の喪失感を翻訳されるとは思ってもみなかった。
ケーブルテレビが発達しているアメリカには、地方格差の象徴であるテレビの砂嵐はなかった。
だが、私は確かに「砂嵐の幻影」を見ていた。
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■ なぜ私は構造を見る執筆者になったのか
振り返ると、この経験がすべてを決めている。
私は作品の内側に入れなかった。
だから外側から見るしかなかった。
なぜ観られないのか。
なぜ格差があるのか。
なぜ自分はここにいないのか。
結果私には、あらゆる物事において “意味”ではなく“構造”を見る癖がついていた。
私のnote記事をご覧になったことがある方は、多少なりとも納得いただける、かもしれない。
アニメや音楽など、あらゆるポップカルチャーの知識と、言語学・広告観点を活かした文章。
その文章の根にあるのは「飢餓感」「執着」だ。
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■ 飢餓感の正体
この感覚を「サブカル飢餓感」と呼ぶこともできる。が、少し言い換えたほうが本質的かもと、この記事を書きながら思った。
それは飢餓というより、未参加の悲しみである。
欲しいものがあった。
でもそこにいなかった。
でも完全に無関係でもない。
中途半端な距離。
これが、ずっと残り続けている。
そしてたぶん、一生消えない。
でも、それでいいのだと思う。
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■ 結論:私は外側から語る人間になった
同時代にいられなかった人間は、時代そのものを分析するようになる。
それは例えば、日本語のネイティブではないほうが客観的に日本語を分析している、そんな現象に近いのかもしれない。
私は作品の中にいた人間ではない。
外側にいた人間だ。
だから、内外の両方を同時に見ることができる。
この一生消えない「欠如」こそが、私の創作の原点であり、コンプレックスでもあり、そして間違いなく私の武器でもあるのだ。
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