ショートショート「アンクルソックスはどこまでも短く」
暑い。夏はどこまでも暑くなる。そんな中でも外に出る場面というのはやってくる。それが生活というものだ。
夏がどこまでも暑くなるなら、服装は少しでも涼しくしたいと思うものだ。わたしは少しでも涼しい靴下を持っている。アンクルソックスというやつだ。くるぶし丈靴下ともいう。
くるぶし丈も解釈によりけりで、くるぶしの上までを隠す長さのものもあれば、くるぶしが出るほど短いものもある。それらはどちらもアンクルソックスという名前が混同して使用されているようだ。
わたしはそのいくつかの種類のアンクルソックスを持っているが、どこまでも暑い日はどこまでも短いアンクルソックスを履いて外に出る。
そこまでして涼を得ようとしたところで、暑い夏はやはりどこまでも暑い。数分で歩いているのが嫌になる。そこへ来てこのアンクルソックスはわたしの心持ちに呼応するかのように要らぬ親切をし始めるのである。
歩いているうちに、わたしの右足に履いたアンクルソックスだけがスニーカーの中で勝手にめくれ返っていくのだ。どこまでも短いアンクルソックスは、どこまでも短くなることに己の使命を宿しているかのごとく、ずるり、ずるり、とさらに短くなっていく。涼しいどころではない。単純に、歩きにくい。
彼は数多あるアンクルソックスの中に突然現れた特異体なのだろうか。まるで自らの意思を持っているかのように、ずるり、ずるり、とめくれていき、スニーカーの奥へと引きこもる。
わたしは一刻も早く歩みを止めるべきだったのだろう。だが、道を歩いているときに、突然立ち止まるのは不思議と勇気のいる行為だ。おいそれと簡単に立ち止まることはできない。
当然、周りの目が気になるからだ。わたしが立ち止まったとき、周りの人はわたしに注目するだろう。動いているものが突然止まると、人はその物体を警戒するからだ。そしておおよその場合、人が歩いていて立ち止まるときというのは、なんらかの失策をしたときだ。道を間違えたとき、忘れ物に気づいたとき、落とし物をしたとき、はたと止まって考える。それはやはり不自然な動きで、周りからは好奇の目で見られることになろう。
まして立ち止まった男が靴を脱いで、ほとんど素足になった足の先の方にある縮こまったアンクルソックスを指で引っ張り始めたら、不審者と思われること必定だ。
わたしは失策をしたと思われるのが嫌だ。いや、これはわたしの失策なのだろうか。たまたまこのアンクルソックスを、特異体を手にしてしまったことが失策なのだろうか。
わたしは身に降りかかった災難と自意識との狭間で頭を働かせた。折しも夏はどこまでも暑くなっている。わたしはもはや朦朧とし始めた。
頭が朦朧としていることは、人が立ち止まる理由として十分なのではないか? そんな思いも頭をよぎる。しかしわたしは歩みを止めることができない。むしろ人はどうやって立ち止まっていたのだろう。止まり方さえも忘れている。その間にもアンクルソックスは己の使命を全うしようと、ずるり、ずるり、と右足のつま先に向かって進攻を続けている。とても歩きにくく、変なところに力が入って膝に響く。わたしの足への負担も大きくなる。
もはやこのぎこちない歩き方の方が人目を引くのではないかとさえ感じている。
どうすれば不自然にならずに立ち止まれる? どうやったら立ち止まることができる? そうだ、目的地だ。人は目的地にたどり着いたときに立ち止まることができる。わたしの目的地はまだずっと先だ。だが目的地らしきものがあれば、そこで立ち止まることができる。
わたしが真っ先に思いついたのは公園だった。そうだ。公園だ。だれもが立ち止まることを許されるこの世の楽園。緑が溢れ、遊具が並び、なぜか喫煙所がある。憩い、遊び、休み、人はみな思い思いの安らぎをそこで得られる。
家の近所を歩いていたため、わたしには土地勘があった。わたしは一番近くの公園を目指して歩くことにした。右足の違和感はいやましに増している。しかし目的地ができたことで、わたしは少し楽な気持ちになった。
そしてついにわたしは公園にたどり着いた。夏はどこまでも暑かった。公園では蝉が鳴いていた。わたしは立ち止まり、近場にあるベンチへと腰掛けた。その頃には、右足の違和感はなくなっていた。
不思議に思いながらも、右足に履いたスニーカーを脱ぐ。するとどういうわけか、そこにはまっさらな素足があるばかりで、めくれ上がっているはずのアンクルソックスは、跡形もなく消え失せていた。
その日からわたしは石田純一と呼ばれるようになった。人類の中で靴下を履かない特異体を人はそう呼ぶらしい。
