心と私と意識と悟り④─無我とワンネスは悟りの裏と表─
今回は「悟り」について書きましたが、私は悟っておりませんので、書籍やSNSを見て、「この人は悟っていそうだな」と思える方の主張を参考に、推論を述べています。
悟りの切り口は2つある
あくまでも、私なりの理解ですが、「悟り」とは、①無我、②ワンネス──この二つの切り口から捉えられる意識の在りようと考えます。
「無我」とは、「固定的な自己は存在しない」という仏教の核心的な教えです。
私達は、肉体、思考、イメージ、感情などの一時的な要素が組み合わさっているだけであり、ただ縁(条件)によって現象が起きているに過ぎず、中身は「空(くう)」であるという考え方です。
「ワンネス」は、「すべては一つ」というヒンドゥー教やスピリチュアル、神秘主義から来る概念です。
「私」と他者を分ける境界線は幻であり、すべては一つの実在、巨大な意識(ブラフマン、宇宙意識、神など)であると捉える考え方です。
無我の悟り
「無我」とは、「私」という主体が落ちた状態を指しています。
多くの体験談を読む限り、「無我」を悟る前提として、「認識作用」の停止が起こるようです。
「認識作用」とは、五感から入ってきた情報を確認し、それに関するイメージが起こり、煩悩が刺激され、良い・悪い、好き・嫌いなどの識別が働くことです。
「認識作用」が停止すると、認識が戻った時、認識が停止していた間の記憶は残らないと言われています。これは、気絶している状態に近いのかも知れません。
そして、認識作用の停止を通じて、「私」という固定的な主体がないこと、自分の本質は「無我」であることを悟るようです。

ワンネスの悟り
「ワンネス」の悟り体験は、自己と他者の境界が消え、宇宙全体との強いつながりを感じる状態として語られています。
自分という個体が溶け出し、周囲の風景や物体、宇宙そのものと地続きになり、絶対的な安心感、深い納得感、言葉にできない至福感に包まれるとも言われています。
このように、「無我」の悟りと「ワンネス」の悟りは違うと思われます。仏教修行者からは、「ワンネス体験は真の悟りではない」と指摘する人もいます。
無我とワンネスの関係
比喩的に言えば、無我は「0」、ワンネスは「∞(無限大)」に近いのかも知れません。
ここからは一つの例えとして読んでください。
「ワンネス」は、パソコン画面のようなものだとイメージしています。
パソコン画面は、「ドット」(画素・ピクセル)と呼ばれる微細な点が集合して映像を表わします。ドット1つひとつが我々個人の意識であり、その集合体が「ワンネス」という状態です。
では、「無我」はどうかと言えば、パソコンの電源を落として、真っ暗で何もない画面の状態ではないかと想像します。
「ワンネス」は、巨大な意識としての存在感を残していますが、「無我」はそれすらも消し去った状態ではないでしょうか?そうだとすれば、「無我」と「ワンネス」は「悟り」の裏と表の関係なのかも知れません。
つづく
いいなと思ったら応援しよう!
応援お願いします!