『自分とか、ないから。』騒動(上)
1.待合室の本棚
あれはちょうど1年前のこと。通っている精神科の待合室の本棚に、見覚えのある本が1冊増えていた。
しんめいP著 『自分とか、ないから。』

私は驚いた。なぜなら、私自身が最近買ったばかりで、お気に入りの本だったからだ。
「院長先生が買ったのだろうか?」
以前、主治医である院長先生から遠藤周作の作品を勧められたことがあった。そんな先生が東洋哲学に関心があってもおかしくない。
それにしても、すごい偶然だ。私も診察の待ち時間にこの本を持ってきて読んでいたことがある。「先生と好みが一緒だったら嬉しいな」
そんな弾んだ気持ちになっていたら、私の名前が呼ばれた。私は本棚からその本を手に取り、診察室へ向かった。
「先生、この本、先生が買われたんですか?」
院長は穏やかに答えた。
「はい。東大卒のニートのかたが書いた本でね……」
先生も東大卒だ。だから興味を持ったのか。納得がいき、その日は楽しく会話をして診察を終えた。
2.忍び寄る疑惑
異変に気づいたのは、帰宅してからだった。
病院で読んだ続きを読もうと、自分のカバンや部屋を探したが、私の『自分とか、ないから。』が見当たらない。
嫌な思いが浮かんだ。私は以前、あの本を待合室で読んでいた。その時にもしかして忘れていったのではないだろうか。それが病院の本になってしまったのでは……。
病院にあった本には、備品であることを示すハンコが押してあった。私の本に、ハンコ押した?
さっきまでの「先生と好みが一緒で嬉しい」という喜びが、疑心に変わる。
でも、先生は「買った」と言った。はっきりとそう言ったのだ。
3.カウンセリングにて
翌週のカウンセリングの日。私は疑いを抱えたまま、カウンセラーSさんにその話をした。
私:
どれだと思います?
Sさん:
なにが?
私:
1.私が置き忘れてった本が病院の本にされちゃった。
2.先生が私が読んでる様子を見てあの本面白そうだなった思って買った。私は普通にどっかでなくした。
3.本当に偶然に同時期に同じ本を買った。私は普通にどっかでなくした。
Sさん:
それで?なにが言いたい?
私:
3はさすがにないかなって今は思うんです。数多(あまた)ある本の中から同時期に同じ本買うって、すごい確率低いでしょ。
で、2だったなら「石田さんが読んでるの見かけて面白そうだったから僕も買いました」みたいな一言あっても良かったと思うんだよ。
1だったら完全に嘘つかれたってことになるよね。
Sさん:
それはどういう気持ちなんですか?猜疑心?
私:
うん。猜疑心。疑心暗鬼。でも先生は「買った」と言ったんだから、これ以上確かめようがない。だから本当のことは分からない。この猜疑心を収める方法が分からないから、Sさんだったらどうするのか、聞いてみたかった。
Sさんの回答は合理的だった。
「もう1冊買って終わりにすればいい。手元にないことが問題なら買い直す。そうでないなら、1回読んだんだから満足でしょう」。
しかし、私が苦しんでいたのは本を失ったことではなく、「先生が嘘をついたかもしれない」と疑う自分への嫌悪感、そして真実が分からない不気味さだったのだ。
4.増殖
結論は出ぬまま、カウンセリングの時間が終わり、部屋から出て待合室に戻る。
再び本棚に目をやる。
私:!!!???
言葉を失った。そこには信じられない光景があった。
Sさんが予約票を手にやってくる。
Sさん:
次のカウンセリングは来週の……
私:
ちょちょちょ…見て見て…。例の本が、2冊に増えてる…。
本棚に『自分なんて、ないから。』が2冊あるのだ。増えている。
ここの本棚に同じ本が2冊あったことなど、一度もない。
Sさん:
1冊持ち帰ったら?
私:
だってそんなの。病院のハンコ押してある本持ち帰ったらパクってることになるじゃん。
Sさん:
あ、3冊ある。あっちにもある。計3冊だ。
私:
!!?!?
3冊なんて、おかしいでしょう?!?!
Sさん:
1冊持ってったら?
私:
どどど、どうしよう。どうしよう。
Sさんが「いいよ」って言ったからってことにしていい?
あっこれって責任を押し付けてるやつになっちゃうよね?!ダメだね?!
Sさん:
まあ。それはいいですよ。
私:
どうしよう…どうしよう(混乱
私は、結局1冊持って帰ったのだ。
私は自分の本を「取り戻した」のか、病院の備品を「盗んだ」のか。
ともかく不気味に3つに増殖した本を、1冊私は持ち帰った。
その決断は、私を更に苦しめることになる。
続く
