プロギングの言語化に、今日ようやく成功した気がする。
前回、「ゴミ拾いと何が違うの?」という質問に、自分なりの答えを書いた。
準備運動、自己紹介、交流が生まれる仕組み、可視化される達成感。
我ながら悪くない言語化だと思っていた。でも、どこか「表面をなぞっているだけ」というモヤモヤも残っていた。
そのモヤモヤが、今日、一気に晴れた。
プロギングがなぜ人を惹きつけるのか。今日、ようやく本質を言語化できた気がする。
ヒントになったのは、二つの「知」だった。
答えにたどり着く鍵になったのが、「身体知」と「暗黙知」という二つの言葉だった。
身体知(しんたいち)とは、体を動かすことでしか得られない知識のこと。
自転車の乗り方を思い浮かべてほしい。マニュアルを100回読んでも、乗れるようにはならない。転んで、バランスを崩して、体で覚えて、初めて乗れるようになる。これが身体知だ。
暗黙知(あんもくち)とは、言葉ではうまく説明できないけど、確かに分かっていることのこと。
「いい雰囲気の教室」と「気まずい教室」の違いを、あなたは説明できなくても、教室に入った瞬間に分かるはずだ。友達の機嫌が悪いことも、理由を聞く前になんとなく分かる。これが暗黙知。
反対に、教科書や検索で調べれば誰でも手に入る知識を「形式知」と呼ぶ。
形式知=言葉で伝えられる知識。身体知・暗黙知=体験しないと手に入らない知識。
この二つの言葉を手に入れたことで、プロギングの魅力がやっと言葉になった。
AIが発達するほど、人は「本物の体験」を欲しがる。
なぜこの二つの言葉が、プロギングを説明する鍵になったのか。
今、形式知はAIに聞けば一瞬で手に入る時代になった。歴史も、レシピも、プログラミングのコードも、検索窓に打ち込めば答えが返ってくる。
でも、AIがどれだけ賢くなっても、絶対に代わりにできないことがある。
それが、身体知と暗黙知だ。
朝の空気を吸った感覚。知らない人と目が合って、照れ笑いした瞬間。体を動かした後の心地よい疲労感。これらは、どれだけAIの性能が上がっても、画面の向こうでは絶対に体験できない。
だからこそ、皮肉なことに、AIが便利になればなるほど、人は「本物の体験」を求めるようになる。プロギングが今の時代に響くのは、まさにこの部分を満たしているからだと気づいた。
ネアンデルタール人は、なぜ滅びたのか。
ふと出会った、ある話が、この「身体知・暗黙知を求める本能」を裏付けるものだった。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンス。同じ時代を生きた2種の人類のうち、なぜホモ・サピエンスだけが生き残ったのか。
ネアンデルタール人は、身体的な頑健さも、脳のネットワークも持っていた。それなのに、なぜか。
体力でも、脳の性能でも劣っていなかったはずの種が、なぜ滅びたのか。その手がかりの一つが、「ゴミ」だったという。
遺跡から出土したゴミを調査すると、ネアンデルタール人のゴミは、生活に必要なものがほとんどだった。近くで手に入るもの。生きるために使うもの。
一方のホモ・サピエンスのゴミには、生活に直接関係のない、意味不明な、遠くから運ばれたものが多く混ざっていた。
つまり、行動範囲が違う。
生きるために必要な範囲だけを動いていたネアンデルタール人と、必要もないのにどこまでも探索しに行っていたホモ・サピエンス。
未知との遭遇を求め、越境したいという欲求。それが、ホモ・サピエンスである我々の自然体だということ。身体知を高めたい、暗黙知をつくりたいというのは、大昔から人類に組み込まれた本能なのだ。
ウェルビーイングとは、こう定義できるのかもしれない。
「何かいい状態だよね」と、自分で言える状態。
誰かに評価されるものではなく、自分自身が「いい感じ」と実感できているかどうか。それは形式知では手に入らない。身体知と暗黙知を積み重ねた先にしかない。
ここまで聞いたとき、頭の中でプロギングとつながった。
プロギングは、この本能を満たす仕組みだった。
プロギングには、この「本能的に求めているもの」を満たす要素が、少なくとも3つある。
一つ目。ゴミ拾いという、普段しない行動をすること。
日常のルートを、いつもと違う視点で歩く。しゃがんで、拾う。これだけで、いつもの行動範囲から少しはみ出す。
二つ目。知らない人とゴミ拾いを通じて、交流せざるを得ない仕組みがあること。
拾う人と袋を持つ人。役割を分けることで、初対面同士でも会話が自然に生まれる。
三つ目。気づいたら、社会貢献してしまっていること。
義務感で始めたわけじゃないのに、終わってみたら街がきれいになっている。目的ではなく、結果としてついてくる。
この3つは、ネアンデルタール人にはなくて、ホモ・サピエンスにはあった「意味のない遠くのゴミ」と同じ構造をしている。
必要じゃないのに、やってしまう。それが、人間の自然体。
言語化に、成功したと思う。
前回の記事で書いた「また来たい感」の正体を、今日ようやく説明できる言葉に出会えた。
プロギングが楽しいのは、企画がうまいからでも、雰囲気がいいからでもない。
AIにも、検索にも、マニュアルにも代われない「身体知」と「暗黙知」を、満たしているからだ。
だから、続く。だから、また来たくなる。義務感ではなく、本能。
「プロギングって、結局何が違うの?」
この質問に、今日ようやく胸を張って答えられる気がする。
プロギングとは、人間が本能的に求めている「未知との遭遇」を、ゴミ拾いという形に落とし込んだ仕組みである。
体力でも脳の性能でもなく、行動範囲の違いが明暗を分けた。その本能は、今も変わらず私たちの中にある。プロギングは、その本能に正直になれる数少ない機会なのだと思う。
走って、拾って、本能を満たす。今日、その正体をようやく言葉にできた。これが、私の出した答えだ。
プロギングジャパン【公式】 ジョギング×ごみ拾い プロギングはゴミ拾い(PlockaUpp)とジョギング(Jogging)を合わせたスウェーデン発Newフィットネス。
