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掌編小説|茉莉花の香りと風来坊

 「――だから置いてきたんだ。原理も、何もかも」
 
 風来坊のような雰囲気を纏った男は、ぽつりと声を落とした。
 いや、原理とか私もわからないから。彼はわけのわからない話をよくする。
  
 彼の目は、どこか遠くを見ていた。それはどこか諦めにも近い表情で。

 私は彼の背負ってきたものを理解できない。ただ、ひとつひとつ噛み締めるように頷いた。

 私たちの間を僅かな沈黙が包む。
 目の前に温かいジャスミン茶が運ばれてくる。ふわりと茉莉花の香りがたちこめて、空気を少しだけ、軽くした。

 彼は一口だけ飲み、表情が少し和らぐ。

 なぜ、この謎の男と出会ったのだろう。初めて会った時、背が高く、着ている黒いコートが印象的だった。
 彼には人を惹きつける何かがあるのだろう。気がついたら彼に声をかけており、気がついたらここにいた。いわゆる逆ナンというものに近かったのかもしれない。

 話していると、彼の話は時々訳がわからない。
 彼がふと口を開く。

 「……君は不思議に思わないか? どうして熱い茶葉から、こんなに甘い花の香りがするのか」

 彼はカップの縁を指先でなぞりながら言った。

 「……君の世界の『定義』は、僕には少し窮屈でね。あっちの星でも、こっちの次元でも、うまく型にはまれない。……僕は、どこへ行ってもはみ出し者らしい」

 私は笑おうとした。けれど、彼の指先が触れている湯呑みが、まるで水飴のように歪んでいるのを見て、笑いが喉に張り付いた。

 心なしか彼の輪郭も、陽炎かげろうのように揺らいで見える。
 その時、歪んで見えた彼が、色を失い彼自身の輪郭まで次第に薄くなっていく。
 さらさらと、砂のように輪郭を失っていく彼に追いつけない。
 手を伸ばそうとしたが、同時に手を伸ばすのを躊躇う私もいた。

 「――待って、貴方は、何者なの?」

 私は、追いかけるように彼に声をかけた。

 「……ああ、もう限界みたいだ」
 
 彼は困ったように眉を下げて、透け始めた自分の手を見つめた。
 
 「君の世界の『原理』は、やっぱり僕には少し窮屈すぎたよ。質量を維持するだけでもひと苦労なんだ」

 ……消えたはずの、彼の声がゆらりと響く。やっぱり訳がわからない、だけど、胸がぎゅっとなる。
 
「やっぱり、僕は君の世界にも……とどまれなかった。この飲み物、もっと君と飲んでいたかった」

 彼が悲しげに声を落とす。
 次の瞬間、主を失った黒いコートだけがずるりと椅子に崩れ落ちた。

 「――君の名前、聞いておけばよかったな」

 最後に残ったのは、風が抜けるような微かな音だけ。
 彼の残した湯呑みから、茉莉花の香りだけが残る。触れてみると、まだ温かかった。


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