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掌編小説|知らないほうがいい、君のこと

「ちょうど、喉乾いてたんだよね」

 シマウマのようなTシャツをひらひらさせ、彼は言った。
 マグマのように赤い髪を揺らし、彼は海の向こうの火山を見ている。

「よかったらこれ、飲む?」

 数日一緒に過ごしても、何者か分からない彼に、私は飲み物を差し出す。
 海でもない、火山でもない。――むしろ、この世のものではなさそうな、彼に。

 彼との出会いは、数日前にさかのぼる。
 突然の滝のような大雨に打たれ、私のアパートの前にいたのだ。
 こんな住人いたっけ? いや、いない。
 けれど、雨ざらしになっている彼を放ってはおけず、声をかけた。

「風邪、ひきますよ?」

 真紅の髪が濡れ、小動物のように震えて顔を上げた彼のルビーのような瞳は潤み、顔色がどこか悪かった。
 とりあえず家に上げた彼へ、タオルを差し出すと、初めてのものを見るように不思議そうにしている。

「——これ、何?」
「タオル、だけど」
「たおる?」

 その表情は本当に何も知らないといった目だ。私は、彼の真紅の髪にふわりとタオルを乗せる。
 わしゃわしゃと拭いてみせると、「何するんだよ」と言いたげな視線で私を見た。

「君、名前は?」

 私が尋ねると、彼は首を傾げる。

「……わからない」
「わからないって、記憶がないとか?」
「名前、って何?」
「私は、千紗希ちさき。これが、名前。……君さ、呼びにくいからベニって呼んでいい?」

 風鈴のような音がチリン、と鳴る。
 ベニ、と呼んだ彼はこくりと頷いた。

 ベニとの生活は、胸の奥で閉じられたなにかが開いていくような、言いようのないものだった。
 しかも、なぜか風鈴のような涼しげな音がするときに、胸の奥がざわつく。

「ベニ、あと着替え。サイズが合わないかもしれないけど」

 私が持っている中で、サイズが大きめの服を着せた。シマウマのような白黒のボーダーのTシャツと、黒いズボン。
 彼がそれを着たとき、私より背が高いはずなのに、なぜか誂えたかのようにしっくりときた。

 ベニは、本当に何も覚えていないようだった。というか、知らないようだ。
 ただ、彼が私の方を見るたびに、チリンと高い音が鳴る。

 彼は本当にどこから来て、そして何者なのだろう。
 私は、疑問符ばかりが頭を巡った。

 そして、彼を海が見える場所に連れて行ったとき、彼は海の向こうに見える火山を見ていた。
 まるで——彼の髪の色と呼応するように。

 チリン。

 また、風鈴のような音が聞こえた。

「ねぇ、千紗希。僕がどこの誰なのか、とか思ってる?」

 振り返ったベニが軽やかな声で話しかける。
 私は、とっさに首を振る。本当は、そう思っていたけれど。

「そんなの、どうだっていいでしょ。ベニは、ベニだよ」

 半分嘘で、半分、本当。
 数日一緒にいただけなのに、ずっと前からベニが隣にいたような、そんな感覚。

 ベニが、私の隣に座る。
 ふたりの間を、夏のじわりと湿った熱風が貼り付くように吹き抜けていく。
 しかし、一緒に座っていると、なぜか居心地がよかった。

 私は、後ろにあった自動販売機を指さして、首を傾げる。

「ベニ、暑いでしょ? 何か、飲む?」

 彼も立ち上がると、ボーダーのTシャツがひらりと風に揺れた。

「ちょうど、喉乾いてたんだよね」

 私は、自動販売機で買ったスポーツドリンクを差し出す。
 ベニの真紅の髪が、さらりと舞った。

 「よかったらこれ、飲む?」

 彼は微笑みながらそれを受け取ると、海の見えるベンチに座った。
 隣に私も座る。

「あっつ! ……ベニは、ベンチ熱くないの?」
「全然」
「……うそでしょ、ベニ、あんた何者なのよ」

 彼は私に微笑みながら、小さく声を落とす。

「——知らないほうがいい」

 チリンと、また高い音が鳴る。
 その時、ぶわっと強い突風が吹き、私は目を閉じる。

「知らないほうがいい、というか、調べないほうがいいよ」

 ベニの声だけが小さくこだまする。

 目を開けると、彼の姿はなかった。
 しかし、また風鈴のような高い音が聞こえた。

 ここにいるよ、と伝えるように。

#なんのはなしですか  
#せりふ三題噺
#火山シマウマ風鈴

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