掌編小説|春の雪解け、震える夜を越えて
プシュッ! と軽快な音を立てて、缶を開ける。
「っぱ、これしか勝たんのよ!」
私は風呂上がりのパジャマ姿でそれを飲みながら独りごちた。今日は控えめに、アルコール分控えめの林檎の缶チューハイ。
明日から三連休。週末に飲むくらいは、許してほしい。
周囲には段ボールがひとつ、ふたつと組み立てられたまま転がっている。
(引っ越しの準備を進めないと……来週から忙しくなるのよね)
頭ではわかっている。――ただ手が止まる。
何から詰めるべきか。推し祭壇だけは最後まで残しておきたい……いやいや、引っ越しだからこそ生活必需品を最後にすべきだろうか。私の中で優先順位が酔いとともにぐるぐる回り、一瞬くらりとする。
ピコン、とスマホから音がする。
午前一時――私は飛び起きてスマホに指をすべらせる。
(あれ……私、眠ってたんだ)
メッセージを見たその時、私の心臓が鈍い鼓動を上げた。
送り主は――元彼で同期の暁斗。
一瞬私の手が止まり、黒い靄のようなものが胸の中に立ち込めるのを感じた。
『なんで中城と一緒にいるんだよ? お前と終わったつもりはないんだけど?』
同期だし、仕事の関係もあるからとブロックできなかったのが失敗だった。
カフェで『終わったこと』と告げて終わったはず。なのに、彼の中では終わっていなかったらしい。
音信不通でフェードアウトしたくせに、再会した途端これだ。
瞬間、着信音がけたたましく鳴り、私の呼吸が、だんだんと浅くなっていく。
スマホを手放し、私は耳を塞ぐ。それでも着信音は塞いだ手をこじ開け、入り込もうとする。
目尻から頬骨のあたりを、熱いものが伝い、私の頭の中がすぅっと真っ白になり何も考えられなくなる。
それから心臓の音だけがうるさく、眠れなかった。
翌日、くらくらとする頭を抱え、コーヒーを飲んでいると、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、遥輝くんが立っている。
私は、姿見をちらりと見る。目のあたりが、腫れていた。
(言うべきかな……)
カチャリとドアを開けると、私の顔を見た彼が心配そうに声を落とす。
「侑里さん、どうしたんですか? 目が腫れてる……」
「――大丈夫、何でも、ない」
私は力なく返し、彼を部屋に招き入れた。
リビングに座ると、彼が改めてまっすぐに私を見て話す。
「……話してください。一体何があったんですか?」
一瞬私は俯き、視線を逸らす。心の中が溶け切ったように目から熱いものが流れ出す。
私は、震えながら、彼にスマホのメッセージ画面を差し出した。
遥輝くんの目が、冬の風のように冷たく凍りついた。握りしめたスマホを持つ手が、静かな怒りでかすかに震えている。
「……笹原先輩、まだ諦めてなかったんですね。俺に当たりが強いと思ってたら、侑里さんにまで……!」
彼の口が歪み、更にトーンが低くなり、話を続ける。
「着信履歴もこんなに……。俺、もう我慢できません。このまま笹原先輩に、電話します」
彼はサッと自分のスマホを取り出す。私は、思わず口を開く。
「遥輝くん……あなたの立場が悪くなる。私は、いいから……」
彼は首を振り、私の方を向き直し、私の目の中心を見据える。
「俺の立場なんて、どうでもいい。……ただ、侑里さんを怖がらせて、泣かせた。それが、許せないんです」
ふわっと彼の手が私の頬のあたりに触れた。
「信じてください」
彼はふっと微笑んで、真剣な表情で部屋を出ていった。扉の向こうから、彼が誰かに向けて放つ、低く冷徹な声がわずかに漏れ聞こえる。
「――あと、俺は坂倉先輩と付き合っています。なのでもう、彼女に必要のない連絡はやめてください」
その声を聞いた瞬間、私の胸を縛り付けていた黒い靄が、春の雪解けのようにふわりと解けていった。
そして、彼がリビングに戻ってきて、ぎゅっと抱き寄せられ、口づけが落とされる。
「……もう、大丈夫です。釘、さしましたから。――あと、休みですし温泉にでも行きません?」
「でも、引っ越しの準備が――!」
「帰ったら手伝いますよ、気分転換に行きましょう」
「……ブラウは?」
「うちのアパートの大家さんが、見てくださるそうです」
彼は微笑みながら指はスッスッと素早くスマホで切符の予約を済ませる。
(たぶん、遥輝くんには一生かなわないかも)
私の心がうるさい音を立て跳ね続けていた。
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