短編小説|ほろ苦い幸福
時計の針は午後6時を回っていた。
なんだか今日は疲れで足が鉛のように重い。呼吸と動きが噛み合っていない。
こんな気分の時はコーヒーでも飲みたい気分だ。
私は、退勤後の道をあてもなく歩いていた。
ふと、どこからかコーヒーのほろ苦くも甘い香りがした。
私はその香りに誘いこまれるように重い足取りで歩みを進める。
誘惑されたようにたどり着いたのは路地裏の少し古びた昔ながらの喫茶店。
カランカラン。
ドアのベルが涼しげな音をたてる。
店内にはジャズミュージックが流れており、調度品も昔ながらのレトロで上品な雰囲気を醸していた。
カウンターにいたのは涼しげな瞳をした50代くらいの女性とよく似た顔の若い男性。
私は店の隅の席に腰を下ろし、カウンターの男性をちらっと見る。
「ホットコーヒーを、お願いします」
差し出されたコーヒーはほろ苦いのに、砂糖を入れなくてもほんのり甘い。
口にするだけでじんわりとした温かさと幸せが広がるようだった。
――それが、私とここ喫茶フェリチタとの出会い。
それから私はフェリチタによく足を運ぶようになった。
店主の佳乃さん、息子の翔真さんとは通ううちに親しくなっていった。
ここは佳乃さんのおじいさんの代からあるお店なんだそうだ。
今日はいつものコーヒーと、あと丸いガラスの器に入れられたみたらし団子が差し出された。
「翔真さん、これ……」
「あぁ、これ試作品なんだけどよかったら食べて」
翔真さんがやわらかい眼差しで私に差し出す。
「あ……ありがとうございます。いただきます!」
翔真さんは無口そうに見えるが、話してみるととてもふんわりとした人で話すたびに惹かれていった。
「あらあら、試作品なんて言っちゃって。瑞希ちゃんが来たら出すんだって言ってたじゃない」
佳乃さんがふふっと笑う。
「――っ! おふくろ! ……それ言うなって!」
翔真さんが顔を真っ赤にして佳乃さんに言葉を返す。
私は全身が熱くなり、胸が跳ねるのを隠すように器に盛られたみたらし団子をひとくち、口にした。
ひんやりとした白玉にひんやりとした甘い蜜が口に広がる。
まるで、心ごとこのみたらし団子と翔真さんに持っていかれそうだ。
翔真さんには、既に心まで持っていかれているけれど。
それから、私は同僚に彼氏がいるのかと聞かれたらこう答える。
「私の彼氏は……みたらし団子なの!」
私の心を持っていったみたらし団子と、彼への想いを隠して。
まさに『felicità(フェリチタ)』幸福な時間と心――。
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