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私たちは様々な経験をしながら生きていますが

過去の経験は「思い出」として蓄積され、自分たちの人生の様々な選択肢として機能します。

例えば自身が学校で楽しい「思い出」を持っていれば、自分が教員としてその現場に帰ってきやすくなるでしょうし、その逆もまた然りです。

『元キャリア官僚「結局、文科省が悪い」論に本音、降り注ぐ教育改革への向き合い方 学校がもっと「しなやかでしたたか」になるべき訳』

の記事の中で、広島県総務局付課長で福山市教育委員会学校教育部参与の寺田拓真氏は、そのような学校に「良い思い出」を持っているメンバーで構成された組織体(つまり学校)だからこそ、その構造改革に時間がかかると指摘しています。

 学校教育に不満を持つ方々からすれば「遅すぎる」と批判を受けそうですが、考えてもみてください。大半の学校の先生にとって、学校というのは、「こどもの頃のステキな思い出が詰まった場」です。自身が児童や生徒として受けた教育や学校での生活が、つらい思い出ばかりだった人が、はたして「仕事として学校に戻ろう」となるでしょうか。つまり、教師たちにとって、「教育改革」とは、思い出の否定であり、そしてある意味では自分自身の否定でもあるのです。

教員には「学校が楽しいと思う人たちが多くなる」という現象を生み出します。その感覚は、ある意味では、主観が客観になる危険性を帯びていて、多様性を失う原因ともなるのです。

自分の「個人的な」思い出や経験値が、他の人に当てはまるわけではないと言うことを理解しなければならない一例であるでしょう。

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