🐻 バケモノの子と、無理心中を選ぶ「親の献身」:人類を導く二つの欲望の軽重
1. 誰もが「バケモノ」の顔を持つ:親と子の最初の出会い
テレビ画面に映し出されたのは、細田守監督の『バケモノの子』。
熊が主役級のポジションを占めるこの物語は、公開から時を経ても、私たちに根源的な問いを投げかけます。
この映画のネーミングは、改めて深く考えさせられます。「バケモノ」とは、作中では動物たちを指しますが、人間の子供にとって、この世界で最初に出会う「バケモノ」とは、他ならぬ私たち「人間の親」のはずです。
子供が自分と他者を安定した人格として区別できるようになるのは、早くて3歳頃。それまでの間、得体の知れない強大な存在が常に目の前に存在する――それは、親という名の「バケモノ」に他なりません。
そして私たちバケモノは、時に本当にバケモノ染みた「悪の所業」に手を染めてしまいかねない事態に追い込まれます。
2. 「絶望」が生む悲劇:人間界からの引き渡し
その最たる例が、毎年100件ほど発生している、幼い子を巻き込んだ無理心中です。
『バケモノの子』を鑑賞する直前、子との無理心中をギリギリで思い留まった母親の告白記事を読みました。同じ「バケモノ」の仲間として、胸の詰まる思いを抱かざるを得ませんでした。
彼女は6月の夜、「山に捨てよう」とわが子を抱いて山中へ向かいます。それは、人間界から動物の住む「動物界」へ子供を引き渡そうとする、極限の試みでした。
なぜ、母親はそこまで思い詰めたのか。彼女の言葉が全てを語っています。
「社会からの拒絶の連続で、絶望していた」
この母親は果たして、バケモノなのでしょうか。
もしかすると、彼女の目には、人間界よりも動物界の方が「バケモノ」が少なく、我が子にとって安全な場所に見えただけなのかもしれません。
社会から拒絶され、「献身」の対象であるはずの我が子を失う選択を迫られた母親。彼女が絶望した「社会」とは、一体何を最高の価値と評価する世界なのでしょうか。
3. 人類を駆動する二つの根源的欲望
私は、人間社会が、二つの根源的な欲望の軽重によって駆動しているように感じます。
その一つは、偉業や権威、開拓といった「個の達成」への欲望。そしてもう一つは、他者への献身、自己犠牲といった「利他」への欲望です。
大谷翔平選手のMVPという偉業に感動しても、その「個の達成」への感動は回数を重ねるごとに薄れます。一方で、感動物の映像や物語が何度見聞きしても色褪せないのはなぜでしょうか。
そこには必ず、他者への健気な自己犠牲、すなわち「献身」が聳え立っているからです。
映画『バケモノの子』の感動も、まさにこの献身にあります。熊徹の「胸の中の剣」への転生、宗師が熊徹に示した権利譲渡、そして楓が無償で行った家庭教師としての献身。これらは全て、「利他」のエネルギーです。
現代社会、特に情報化社会は、多層的な価値観を認め、一つの正解や一人の絶対的ヒーローを求めなくなりました。個の力が際立ち、分断が進むようにも見えますが、歴史を辿れば、目的は個の上昇ではなく、その上昇を束ねる*「人類の成長」にあると気づかされます。
そして、人類を次のステージへ導く遺伝子こそが、「個の偉業」への関心よりも強く私たちの心を揺さぶる「献身」の力ではないでしょうか。
4. 「胸の中の剣」と見えない献身
周りを見渡せば、組織のトップや表面的な成功者よりも、むしろそれを支える側近やさらにその裏にいる人の中に、私たちは「胸の中の剣」の存在に慄く時があります。
物事がうまく運んでいる真の理由は、見えない、見えづらい誰かの献身である場合がほとんどです。
そして、その献身こそが本物である証として、「見えちゃいけない」のです。見えた瞬間に「胸の中の剣」は消えてしまう。だからこそ、本物の献身は決して表舞台には出てきません。
「社会からの拒絶の連続で、絶望していた」という無理心中を選ばざるを得ない母親。彼女を追い詰めた社会は、あまりに「個の偉業」を賛美し、「見えない献身」の価値を無視した世界だったのかもしれません。
想像力を膨らませ、誰が周囲を支えているのかに思いを馳せること。
そして、人間界からわが子を引き渡さなければならない悲劇を防ぐ、一人一人の見えない献身こそが、社会を温め、人類を導く「胸の中の剣」となり得るのです。
私たちは、この献身に感謝と敬意を捧げる世界を作らねばなりません。
