【エッセイ】ほどよく嫌いだから、これからを願う。
「書くことが好き?」
ここにいる人達は、皆心の中でそれを問い、自分なりの答えをもって言葉を紡いでいるのだろう。
人によっては、その答えをさらけ出していたりもする。
かくいう私も、以前、似たような問いかけをした。
「書くの、楽しい?」
この世界では、きっと毎日、誰かがこう問いかけている。
ある人は「なぜ書くのか」というエッセイで。
ある人は「文章の書き方」というコンテンツの導入で。
そして、意味目的を見失わないための自問自答で。
私の中の私にも聞いてみる。
「書くの、楽しい?」
「いいえ」
(中略)
ここまで、私の心境を書き出してみたが、やはり私は「書くのを楽しむ」という境地にはたどり着いていない。
その概念は、地平線の彼方まで歩き続けばわかるのか、はたまた別の次元のものなのか。
わからない。
でも、文章がもつ力を、私は知りたい。
そう思えた。
いつか、その力を使いこなすことができたら。
文章の中に、思考・感情をそっくりそのまま宿らせることができるのなら。
そんな可能性を秘めている、文章という存在を「面白い」と思ってしまう。
文章には可能性があって面白い、そう言い放ってから季節を3つほど越え、そして、文章というのものに触れてもう1年過ぎた。
想いは変わっていない。
2度も辞める機会があったのにもかかわらず、結局ここにいるのだから。
その上で好きか嫌いか、答えを出すなら、私は文章が嫌いだ。
ただ、嫌いであることが悪いことだとは全く思わないし、むしろほどよく嫌いな方がいいくらいだと考えている。
誰かが何かを語るとき、そこに「好き」か「嫌い」かは付き物。
どちらか明確に口にせずとも、大抵の場合、内容や態度から汲み取れる。
ひとたびネットにアクセスすれば、会話を介さずとも対象の評価を知ることができる。
星の平均値で、あるいは全く知らない誰かのコメントの集合体で、ものごとを判断するようになった。
実際、私は何か気になるものがあったら、とりあえず調べているが、その過程でレビューは欠かせない。
品質が低くて使い物にならない、詐欺に遭いたくない、満足できない……とにかく、後悔したくないのだろう。
コスパやタイパが重視される、そんなパラダイムに吞まれてしまっている。
こうして、対象に向けられた「好き」と「嫌い」の置手紙の数を測って、それに触れるかどうか決めてしてしまっていることも多い。
しかし、レビューを細かく探ると、「好き」は言葉を尽くしてその良さを称えられるものが多いのに対し、「嫌い」は基本的に文章量が多い少ないかの二極端になっていることが多いように感じられる。
そして短く記される「嫌い」ほど攻撃性が群がりやすい。
記事として世に出されるものよりも、サイトの返信欄やXのような媒体のほうが短い言葉が散らばっている分、それだけ「嫌い」も目につきやすくなる。
「好き」が「嫌い」を糾弾することもある。
ものごとの評価は好きと嫌いの二元論であるべき、嫌いは排除されるべき。
果たして、どうなのだろうか。
例えば、ジャンルの同じ作品でも、主人公がポジティブかネガティブか、キャラクターが道中で死んでしまうのか、コミカルな描写の多いのか……など、分解してみると色々な要素の上で成り立っている。
「ストーリーはいまいちだけど、キャラクターが可愛いから見ている」
「絵のタッチは苦手だが展開が面白くて続きが気になる」
観ている作品の中で、こういった特徴を持つものはないだろうか。
1つのものごとの中に好き嫌いは共存している。
その上で、ものごとを単に好き嫌いで分けるのではなく、自分の感じた要素1つ1つに好き、嫌い、そして興味がないの3つに分けるべきだと考えている。
これを踏まえた上で他人の意見に触れてみると、「好き」「嫌い」の大半は「この要素については~」を文頭につけて読んでみると相手の言いたいことがスッと入ってくるし、「嫌い」には相手にとっての嫌いと興味ないが混在しているものが一定数あることが分かってくる。
世間は賛否両論と言うのだから、自分には合わないかもしれない。
そういうものほど、白と黒の2色だけで作られたミサンガをほどくことで、編み込まれた呪いは解かれ、見えてくるものがある。
そして、好きと嫌いを感じる時、生まれ持った感覚、育った境遇が一様ではないために、バイアスを持つことは避けられない。
たとえ同じものを観ていたとしても、それを映すレンズの度と色が違えば、だまし絵のようにもう一方を認識するのは難しい。
その上で、自分の脳内を漂うある要素が「好き」「嫌い」という強いベクトルを帯びたとき、その理由が言語化される。
好きと同じように、嫌いにもちゃんとした理由は存在する。
ただ、嫌いなものを「批評」の形で昇華するのは難しい。
「有害だから、見たくないから、排除してしまいたい」という気持ちが先行し、所謂アンチのように牙を向くことで解消され、純粋に楽しんでいる人がちょっとだけ苦しむ流れが繰り返されている。
「嫌なら触れなければいい」というのは一理あるし、そうすれば誰も困らない。
しかし、嫌いから生まれる原動力は、好き以上に人を動かすものであることを私は知っている。
その1つとして、先日のゲームでの経験をあげてみる。
基本、対戦には勝者と敗者がつきものだ。
一時期、オンラインに潜るとほとんど負けてしまう時期があった。
というのも、流行が「早い段階で相手に理不尽を押しつけ、抵抗の余地をなくす」か「受動的な立ち回りを徹底し、相手が失速したところで理不尽を押しつける」の2つであったため、後味の悪い対戦が続き、半年以上欠かさずプレイしていたものの、もうやめてしまおうかと思っていた。
私は理不尽が大嫌いだ。
ランキング上位に行きたいわけではなく、ある程度のランクまで進めたいだけだが、ダイブする度に一方的に押さえ付けられる展開が許せなかった。
かといって勝つことを目的にし、自分がその戦略を取ることも許せなかった。
そこで、戦略を一から作り直した。
自分のやりたいことを決め、そこに相手に抵抗するための術を練り込み、実践。
勝っても負けても、そこで得た細かい立ち回りを組み込んでいった。
すると、次第に勝てるようになってくる。
追い込まれた状況でも、わずかな勝ち筋を見出し、それを押し通して勝利、なんて対戦もいくつか体験した。
この時、「理不尽な状況を押しつけて勝つこと」に嫌いの感情が芽生えた。
許せなかったからこそ、自分が納得できる方法で勝ちを掴むために試行錯誤をした結果、進むことができた。
ただ嘆くのではなく、心の奥に宿る意思に火をつけ、立ち向かうための燃料として嫌いの感情を使うことができれば、より自分らしさを磨ける、というわけだ。
私が書くのを嫌うのは、書くことで得てきたものに「許せない」があるからだ。
大して他人への興味がない割に人の心を踏みにじるのが、
利益の追求のために空っぽを取り繕うのが、
言葉だけは達者で行動が伴わないのが、
機械に人らしさを模倣させるのが、許せない。
そんな風になりたくない。
そして、心にはびこる感情を、思うように言葉にできない私が、なによりも許せない。
彼らには何も求めない。求めてはいけない。
もしそうなってしまえば、私はただのネットの獣となる。
私の紡いだ言葉が、表現が、たとえ正しく優しいものであっても、本能からくる雄叫びと変わらなくなる。
だからこそ、書くことで得た「許せない」「なりたくない」を、言葉を育て、より良い文章を収穫するための肥やしにする。
嫌いの視点を持ち続ける。
実際、そうやって得た素敵な繋がりも、貰った経験もある。
おそらく私は、こうして時間をかけて水晶が出来上がる光景を観ていたいのだろう。
その望みを叶えるためにほどよく嫌い、それが強い意志となって私を創り上げる。
好きを貫く人に、頑張る人は敵わないとは言うが、嫌いを貫く人はもっと厳しい道のりが待っているのかもしれない。
インターネットが1つの居場所となりつつある今、都会の中心であらゆるもの取り入れ、順応と発展を促すよりも、郊外で少しだけ美味しい作物を育てるほうが、たぶん、私には向いている。
投稿:2025.6.11
最終更新:2025.6.25(一部加筆・修正)


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