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暗黙知は、ベテランの頭の中だけにあるわけではない。

この数日、暗黙知に興味がわき、ちょこちょこと調べています。

これまで、暗黙知とは何か、暗黙知は形式知化できるのか、熟練者は何を見ているのか、というテーマで考えてきました。今回はさらに一歩進めて、暗黙知はどこにあるのかを考えてみようと思います。

暗黙知という言葉からは、ベテランの頭の中に知識が詰まっていて、それをインタビューなどで取り出せば、別の人やAIへ移せるような印象を受けます。

私も当初は、そのように考えており、熟練したデータアナリストに質問を重ね、判断基準を細かく分解し、9,000文字を超えるSkillへまとめました。しかし、できあがったものは、期待していたほど役に立ちませんでした。

いま振り返ると、問題は質問の数や文章の細かさだけではありません。私は、熟練者の知識を、その人の頭の中から取り出せる情報として扱っていました。その判断がされた状況や環境などを全く残していませんでした。

※参照した論文や書籍は一部しか読み込めていないため、解釈に誤りがあればぜひ指摘してください。

そもそも、暗黙知を場所で考えてよいのか

暗黙知はどこにあるのか。

この問いには、少し注意が必要です。暗黙知を、どこかに格納されている情報のように扱ってしまうからです。

マイケル・ポラニーが論じたのは、まだ文章になっていない情報の集まりではありません。人が個々の手がかりに暗黙的に依拠しながら、対象を一つのまとまりとして理解する「知り方」です。ポラニーは、あらゆる知識には暗黙的な側面があり、すべてを完全に言葉へ置き換えることはできないと考えました。Michael Polanyi『The Tacit Dimension』

組織研究者のハリディモス・ツォウカスも、暗黙知を独立した内容物として取り出し、形式知へ変換するという考え方を批判しています。暗黙的な知は、その人の熟練した行為の中に現れるものであり、そのまま捕まえて移せるものではないという立場です。Haridimos Tsoukas「Do We Really Understand Tacit Knowledge?」

そう考えると、「暗黙知は頭の中にあるのか、環境にあるのか」という問い自体が、やや乱暴です。

今回考えたいのは、暗黙知を頭の中から環境へ移すことではありません。熟練者の判断が、どのような人、道具、記録、会話、状況に支えられて成立しているのかということです。

個人だけでは説明できない暗黙知もある

一方で、暗黙知はすべて個人の中にある、と言い切るのも正確ではありません。

科学社会学者のハリー・コリンズは、暗黙知を「関係的暗黙知」「身体的暗黙知」「集合的暗黙知」の三つに分類しています。

このうち集合的暗黙知は、個人ではなく、社会の中で維持されている知識です。たとえば、言葉を文法的に正しく使えるだけでは、その場にふさわしい発言ができるとは限りません。冗談として許される範囲、発言するタイミング、相手との距離感などは、その集団へ参加する中で身につけていきます。

コリンズは、このような知識は、説明書を読むだけでは獲得できず、社会化を通じて身につける必要があると論じています。Harry Collins『Tacit and Explicit Knowledge』

職場にも、似たものがあります。

会議でどこまで反論してよいのか、問題が起きたとき誰に先に相談するのか、資料を提出する前に誰へ見せるのかといった慣習は、明文化されていないことがあります。それでも、その職場で仕事をする人たちは、ある程度共通したやり方を身につけています。

個人が実際に判断することと、その判断を可能にする慣習が集団の中で維持されていることは、両立します。

ベテラン一人で仕事をしているわけではない

たとえば、データ分析のレポートをレビューしていて、「この数字は何かおかしい」と感じたとします。

その違和感は、本人の頭の中だけから生まれたのでしょうか。

実際には、以前見た似たレポート、いつも使っているデータ、過去の施策結果、普段の変動幅、集計担当者との会話など、さまざまなものが判断を支えています。使い慣れたダッシュボードの配置やデータベースの構造によって、次に確認すべき場所が絞られることもあります。

同じ人であっても、使えるデータや道具、周囲のメンバー、仕事の進め方が変われば、同じ速さや精度で判断できるとは限りません。

このような仕事の捉え方と関係するのが、「分散認知」という考え方です。

認知科学者のエドウィン・ハッチンスは、米海軍の艦船における航海業務を詳しく観察しました。船を安全に航行させるための計測や計算、情報伝達、判断は、一人の航海士だけで完結していません。複数の乗組員が役割を分担し、海図や計器を使いながら情報を受け渡すことで成立していました。

ハッチンスは、個人だけでなく、乗組員、道具、情報の流れを含むシステムを、認知を分析する単位として捉えました。Edwin Hutchins『Cognition in the Wild』

その後、ジェームズ・ホラン、ハッチンス、デビッド・カーシュは、認知過程の分散を三つに整理しています。認知過程は、複数の人の間に分散することがあります。人の内的な処理と、道具や資料など外部の構造との協調によって進むこともあります。さらに、過去に残された記録が、後の判断を変えるという意味で、時間をまたいで分散することもあります。Hollan, Hutchins and Kirsh「Distributed Cognition」

ただし、分散認知は、暗黙知そのものを定義する理論ではありません。道具やデータベースが、人間と同じように暗黙知を持っていると主張するものでもありません。

ここで参考になるのは、熟練した仕事を理解するとき、個人の頭の中だけを分析しても不十分な場合がある、という点です。

学ぶことは、知識を受け取ることだけではない

知識が個人の中だけにあると考えると、技能継承は、知っている人から知らない人へ情報を移す作業になります。しかし実際の職場では、説明を聞いただけでは身につかないことが多々あります。

ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーは、学習を、知識の受け渡しではなく、社会的な実践への参加として捉えました。

新人は、実践者の集団へ参加し、徐々に関わり方を変えながら、その仕事を担う一員になっていきます。これを説明するために提示されたのが、「正統的周辺参加」という考え方です。Jean Lave and Etienne Wenger『Situated Learning』

ここでいう「周辺」は、単に簡単な仕事だけを担当するという意味ではありません。また、正統的周辺参加は、新人教育の手順や研修手法でもありません。

新人が実際の仕事へ参加することを認められ、周囲の人、道具、会話、過去の事例へアクセスしながら、より十分な参加へ近づいていく過程を捉えるための考え方です。

この視点に立つと、新人が学ぶのは手順だけではありません。その職場で使われる言葉、道具の扱い方、相談する相手、仕事を止めるタイミング、何をもって完了とするかなども学んでいきます。

反対に、重要な会議や顧客とのやり取りから新人が外され、完成した資料だけを渡されている場合、その資料をどれだけ蓄積しても、判断の背景までは学びにくいと思います。

OJTに意味があるとすれば、先輩の説明を聞けるからだけではありません。先輩がどの画面を開き、誰に質問し、どの段階で作業を止め、何を確認してから判断するのかを、実際の仕事に参加しながら見られるからだと思います。

同じ暗黙知でも、企業が集めているものは違う

最近、日本企業でも、ベテランの暗黙知をAIで残そうとする取り組みが増えています。

2025年度のNEDO「GENIAC-PRIZE」では、「製造業の暗黙知の形式知化」というテーマだけで58件の応募がありました。NEDOによる受賞結果

ただし、ここでいう暗黙知は、NEDOや各企業が使用している表現です。以下の事例によって、ポラニーが論じた暗黙的な知り方が、そのままAIへ移されたことが証明されたわけではありません。

AIが実際に受け取っているのは、インタビューの回答、作業映像、検索履歴、業務中の会話など、暗黙的な判断が現れた記録です。

興味深いのは、各社が同じ暗黙知という言葉を使いながら、異なるものを記録していることです。

川崎重工業は、熟練者の言葉を集める

川崎重工業とNTTデータは、遠心圧縮機の振動設計を対象に、AIによるインタビューで熟練者の判断を引き出す仕組みを開発しました。

インタビューエージェントが熟練者へ質問し、得られた回答を整理して蓄積します。その知識をもとに、チューターエージェントが若手設計者からの質問へ回答します。

熟練者へいきなり詳細な回答を求めると、回答が断片的になったり、求められている粒度が分からなかったりするため、最初に用語や業務内容を確認してから質問を深めています。回答例を提示し、どの程度具体的に答えるべきかを示す工夫も行われています。NTTデータによる事例紹介

NEDOの資料では、品質の安定や若手・熟練者双方の工数削減などの効果が確認されたとされています。ただし、対象人数や評価方法、具体的な数値は公開されていません。GENIAC-PRIZE成果概要

この事例を見ると、インタビュー方式そのものが無効なわけではなさそうです。

私が作ったSkillは、データ分析業務の広い範囲を一つにまとめようとしていました。一方、この事例は、遠心圧縮機の振動設計という対象に絞られています。

対象範囲の違いが成果を分けた可能性はあります。ただし、公開情報だけでは、質問設計、対象範囲、使用したデータなどのうち、何が効果を生んだのかまでは判断できません。

ダイキン工業は、作業を映像で捉える

ダイキン工業とFairy Devicesは、空調機の点検や修理を行うサービスエンジニアの作業を、首掛け型のウェアラブルデバイスで撮影し、AIで解析する仕組みを開発しています。

AIは作業映像をもとに、点検や修理工程に抜けがないかを確認し、その結果をスマートフォンへ通知します。NEDOの資料によると、3,000時間の作業映像をもとに基盤モデルが構築されています。GENIAC-PRIZE成果概要

ここで扱われているのは、熟練者が言葉で説明した判断だけではありません。作業の順序や、実際に行われた確認動作など、映像から観察できる行為も対象になっています。

なお、これは視線計測ではありません。首元から撮影した作業者視点の映像であり、作業者が実際にどこを注視していたのかまで分かるわけではありません。

同社の発表では、工程の抜け漏れに関する検知精度は、研修施設で91%、実際の作業現場で76%でした。ダイキン工業による発表

ただし、評価件数や精度の算出方法、二つの環境で差が生まれた理由は公表されていません。この数字から、現場における判断の複雑さや、暗黙知の形式知化に成功した程度まで評価することはできません。

この事例から分かるのは、少なくとも言葉だけでなく、実際の作業を観察対象にできるということです。映像から取り出せるのは、暗黙知そのものというより、熟練した行為に現れたパターンだと捉えた方が正確です。

日立製作所は、熟練者の探し方を残す

日立製作所の大みか事業所では、品質上の問題が発生した際、熟練者が過去のトラブル記録をどのように調べているかを分析し、AIへ組み込んでいます。

対象にしているのは、過去の問題に対する答えだけではありません。熟練者がどのようなキーワードを使い、どのような順序で情報を探索し、判断してきたのかという業務プロセスです。

日立の発表では、100件以上の業務上の知見をAIへ組み込んだ結果、過去事例の検索時間が1件当たり60分から5分、対応レポートの作成時間が120分から15分、原因分析にかかる時間が16時間から3時間へ短縮されています。日立製作所による発表

これは、データ分析の仕事にかなり近いと思います。

熟練したアナリストは、すべてのデータや集計条件を記憶しているわけではありません。数字の動きを見たときに、どのテーブルを確認するか、過去のどの案件を探すか、誰に経緯を聞くかを知っています。

つまり、熟練が現れるのは、答えだけではありません。答えにたどり着くための探索経路にも現れます。

ただし、公表された時間短縮は日立による社内検証の結果です。第三者による独立した評価ではなく、判断の正確性や長期的な技能継承まで確認されたものでもありません。

それでも、完成した回答だけでなく、情報を探す順序を記録対象にした点は参考になります。

日立建機は、仕事中の会話と結果を結びつける

もう一つ、興味深い取り組みがあります。

実装を担当したPolaris.AIの発表によると、日立建機の工場では、大型油圧ショベルの製缶エリアにおいて、現場リーダー数名の業務中の会話を約1か月間記録する実証試験が行われました。

音声から抽出した情報を、昼夜勤務の引き継ぎや上司への報告に利用することが想定されています。さらに、生産実績と照合し、当時の判断が妥当だったのかを振り返ることも計画されています。Polaris.AIによる発表AI Watchによる報道

ここで注目したいのは、熟練者の発言を保存するだけでなく、実際の生産結果と結びつけようとしている点です。

「この場合は分母を確認する」と記録するだけでは、なぜ確認したのかが分かりません。

CVRが突然上昇していたのか、CVの実数が変わっていなかったのか、集計対象の定義が変更されていたのか。判断が行われた状況も残せば、別の場面でその判断を使えるかどうかを検討しやすくなります。

さらに、分母を確認した結果、実際に異常が見つかったのかまで残っていれば、その判断の妥当性を振り返る材料にもなります。

もちろん、音声だけで現場の状況をすべて記録できるわけではありません。会話に出なかった情報や、視覚的な変化、作業者の身体感覚などは残らない可能性があります。

また、この取り組みは実証段階であり、判断の精度や業務上の成果は公表されていません。現時点では、成功事例というより、判断と結果を結びつけようとする設計として見るのが妥当です。

暗黙知という一つのデータは存在しない

ここまでの事例を並べると、各社が記録しているものの違いが見えてきます。

川崎重工業は、熟練者が言葉で説明した判断を集めています。ダイキン工業は、作業映像に現れた行為を解析しています。日立製作所は、情報を探すキーワードと順序を残しています。日立建機の実証では、業務中の会話を生産実績と結びつけようとしています。

いずれも「暗黙知の形式知化」と表現されていますが、実際にデータ化されているものは異なります。

これは、どの方法が正しいという話ではありません。

熟練者の仕事を理解するために、何を観察し、何を記録し、何と何を結びつけるのかという設計が異なります。インタビューを選べば、言葉にできた判断が残ります。映像を選べば、外から観察できる行為が残ります。検索履歴を選べば、情報探索の順序が残ります。

反対に、観察しなかったものは残りません。

AIが「暗黙知」という一つのデータを受け取っているわけではありません。人の発言、映像、操作ログ、過去の記録などを受け取り、そこから仕事に役立つパターンを抽出しています。

何を暗黙知として扱うかは、発見というより、設計上の選択でもあります。

残そうとしていた単位が小さすぎた

ここまで考えると、以前作ったSkillがうまく機能しなかった理由も、少し違って見えてきます。

私は、熟練者が発する質問を、知識の最小単位として扱っていました。

しかし、少なくとも一緒に残すべきだったのは、質問だけではありません。そのとき何を見ていたのか、どのような変化を手がかりにしたのか、何を疑ったのか、どのデータを確認したのか、誰と話したのか、そして結果がどうだったのかという、一連の判断場面でした。

「分母を確認する」という一文だけを切り出した瞬間に、なぜ分母を確認する必要があったのかという、肝心な部分が失われます。質問をどれだけ増やしても、状況との結びつきがなければ、AIはその質問を使うべき場面を選びにくくなります。

MTGの文字起こしから、何を疑い、何を確認したのかを抽出することはできそうです。ただし、文字起こしだけでは、発言者がどのグラフやデータを見ていたのかまでは分かりません。参照していた資料やデータ、その後に行った確認、最終的な結果まで結びつける必要があります。

とはいえ、仕事に関係する状況をすべて保存することもできません。情報量が膨大になるだけでなく、機密情報や個人情報、監視されていると感じることによる影響も考える必要があります。

個人か、環境かでは分けられない

暗黙知は、ベテランの頭の中にあるのか。

現時点での私の答えは、「頭の中だけを探しても、熟練者の仕事の全体は残せない」です。

ポラニーが論じた意味での暗黙的な知り方は、人が行うものです。道具やデータベースが、人間と同じ意味で暗黙知を持っているわけではありません。

一方で、コリンズが示すように、社会的な慣習の中でしか身につけられない知識もあります。さらに、実際の仕事における判断は、分散認知が示すように、周囲の人、道具、資料、過去の記録とのやり取りに支えられています。

ベテランの知識を残すのであれば、その人が何を知っているかを聞くだけでは足りません。

どのような状況で、何に着目し、何を参照し、誰とやり取りし、どのように動き、その結果どうなったのかまで見る必要があります。

そこまで記録しても、暗黙知のすべてを形式知へ変換できるわけではありません。記録された情報を読んだ人が、同じ判断力をそのまま獲得できるわけでもありません。

それでも、判断が行われた状況や、熟練者が利用していた手がかりを残せれば、手順や質問だけを保存するよりも、次の人やAIが判断を支援する材料は増やせそうです。

ただし、熟練者の仕事を構成するすべての場面を残すことは現実的ではありません。

では、膨大な経験や判断のうち、何を選んで残せばよいのか、明日以降また考えてみようと思います。

次回は、「どの暗黙知を残すべきか」について考えてみます。

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