見出し画像

映画『くまをまつ』~「内的世界」の呼応~

夏休みの10日間、家族と分かれて、曾祖父が暮らしていた田舎の古民家で叔母と二人で過ごす少年。彼は、初めて泊まった夜、物音に誘われて見た窓の外に、柿の木に登る熊を見た。以来、くまをまつ。

夏休みに子どもが「内的世界」との対話によって成長する話は、洋の東西を問わず、たくさんある。

映画『くまをまつ』(滝野弘仁監督、2025年。以下、本作)もそんな話で始まるが、本作は実は、大人の成長譚だった。

脚本家のややこ(平野れい)は、昨年死んだ祖父・隆二郎の古民家に滞在し、祖父の遺した日記を題材に新作を執筆している。そんなさなか、姉の仕事の都合で、夏の間だけおいの少年タカシ(渋谷いる太)を預かることになる。これまで交流のなかった2人だが、ややこはタカシを昔の自分と重ね合わせて執筆中の脚本に取り入れようとする。そんな思惑も知らず、タカシは夜中に見た“黒い影”や謎めいた青年、ややこの元恋人との出会いを経験しながら夏を過ごす。やがて夏の終わりに、タカシは深い石切場の奥で隆二郎の古い記憶に触れる。そしてややこは、創作を通して自らの“罪”と向き合うことになる。

本作公式サイト「STORY」
(俳優名は引用者が追記)

子どもの成長譚では自身の内的世界との出会いや訣別が描かれるが、内的世界を持っているのは大人も同じだ。
人間は外的世界と内的世界を持ち、両者のインタフェースとして身体がある。
外的世界と内的世界は完全に分離されているわけではなく、"あわい"の中にある。だから身体を通して染み出した内的世界が、同様に他者から染み出した内的世界と呼応するということは、ままあることだ(それを物語では、ややこが外的世界と呼応した内的世界を「脚本」として表出させ、そのことを他者から非難される、という形で表現している)。
さらに言えば、私が何度か繰り返し書いてきたことだけれど、「記憶」を持っているのは人間だけでなく、土地や家にも「記憶」がある。もちろん、故人にも(タカシの見たものは家や土地の「記憶」かもしれず、『くまをまつ』とは、それらからの呼びかけを待っているのかもしれない)。

本作が(苗村とも(大場みなみ)がややこの書いた脚本を朗読するのも相まって)一種の幻想譚のように見えるのは、ややことタカシの内的世界だけでなく、「石切場」が持つ記憶、祖父が暮らした古民家の記憶、その家主だった亡き祖父の(遺された日記をとおしての)記憶が各々おのおの呼応しあっているからだ(この感覚は、滝野監督が助監督を務めた映画『BAUS 映画から船出した映画館』(甫木元空監督、2025年)にも通ずる)。

さらに言えば、虚実曖昧なのは物語世界の中だけでなく、現実世界においても同様だというのは、本作の舞台である古民家が実際、滝野監督の祖父が暮らしていた家であり、滝野監督はそこで本作の脚本を書いたことからも明らかだ。
現実世界を含め、本作にまつわるあらゆることは虚実曖昧にされ、ジェンダーすらも曖昧にされている(単に滝野監督を彷彿させる主人公を女性に置き換えたというものではなく、ややこ(日本語においては「稚児」つまり、「あかご・赤ん坊」を意味する)に関係するジェンダーすべてが曖昧にされている)。

「曖昧」は悪いことではない。何でも白黒はっきりさせたり、説明可能なのが良しとされるわけではない。むしろ、特に、内的世界においては言葉にならない(できない)「言葉以前」の方が大切だったり核心だったりするのではないか。

印象的なシーンがある。
夕暮れ、すっかり暗くなった道を、ややことタカシが手を繋いで歩いている。
『私もタカシくらいの時に、一人でおじいちゃんの家に泊まりに来たことがあった。でも、なんで(姉(中村映里子)や両親と一緒じゃなくて)一人で来たのか、思い出せない』というややこに、タカシが一言『会いたかったんじゃない?』と返す。
一見、ストレートな解答だとも思える言葉だが、実は何の答えにもなっていない。しかし、この具体性を欠く曖昧な言葉が、とても大切に思える(タカシの一言を聞いて、何故か切なくなって泣きたくなった)。

この「わかったようで、わからない」という感覚が本作全編を貫いている。
他者の内的世界と呼応するということは、他者を「わかる」こととは全然違う。
「他者をわかる」のではなく、「確かに<わたし>がここにいる」ということが「わかる」のだ。
そしてそれは、自身との対話を通じて、自身の内的世界に呼応することにつながる。
だから、子どもだけでなく大人も成長する。
ややこを演じた平野鈴は、本作パンフレットにこう綴っている。

ややこを過ごす中で、自分(ややこ)について「暴かれた」と感じたときが度々あった。非常におそろしく、いたたまれない気持ちになった。望んでもいないのに「わかられ」てしまった、と。

タカシが迎えに来た母親とともに去り、ややこはまた一人になった。
毎日誰かとしていた卓球も、ややこがサーブをしても誰も打ち返しては来ない。
だからこそ、ラリーが続いているラストは印象的だ。
恐らく、滝野監督も明確な解答を用意していないはずだ。

だからこそ思う。
あれは、誰もいなくなった古民家が見ている(或いは、懐かしんでいる)「記憶」なのではないか、と。

メモ

映画『くまをまつ』
2025年6月7日。@ポレポレ東中野(初日舞台挨拶あり)

大場みなみさん出演作


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集