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コロナウイルス蔓延時に垣間見えた、社会的な「エゴ」の根深さ。

ご覧いただきありがとうございます。私はウエルビーイングな生き方に関心があり、瞑想やマインドフルネスのことを調べています。noteでは、そこからえた知見を少しでも誰かと共有できたらと思い、書き始めました。応援フォロー、よろしくお願いします。


会社でも学校でも、あるいは家族であっても、自分のことを何より第一に考える人はどこでもいます。「あなたのために」「会社のために」「学校のために」などとあたかも正当な言葉を使ってあなたにアドバイスをしてくるのですが、結局はそのアドバイスをしてくる「その人」自身の利益になることしかしていません。そんな人に振り回された経験はないでしょうか?このような人は、様々な手口で相手を支配しようとする、いわゆる傲慢とかエゴが強いとか言われる人たちですが、そもそもエゴってどういうことなのか考えてみます。

よく言われるのは、エゴは自己意識の一部であり、物語や考えから成り立つ心の中でのアイデンティティです。そして、エゴが顕れる最初の物語として、ナルキッソスの神話が持ち出されます。この神話は『ナルシシズム』という言葉の起源として知られています。ナルキッソスの物語は古代ギリシャにおいて美しい青年が主人公で、鏡や自己が存在する以前の時代に、彼は自分の姿を見たことがなく、彼は水辺にうつった自分の姿に恋をし、自分を求め水に飛び込んでしまい、そのまま溺れて命を落とす話です。

ここは少し立ち止まって考えてみたいところです。私の解釈では、彼は自分に夢中になったのではなく、「自分の(外部的な)姿」に夢中になったと考えたく思います。

エゴのややこしさは、「自分の(外部的な)姿」を「自分自身」とを完全同一視する錯覚にあるのではないでしょうか。所有物、身体、能力、他者との比較など、私たちは「外部」の要素から「自分」を作り出し、それがまぎれもない、唯一の「自分自身」だと思い込むわけです。

人間は、命を脅かすような危険な状況でなければ、社会の中で自分の姿を追求します。そのとき、他者との比較や優越感の追求も行われるので、エゴ的側面も大きくなってしまいます。人間は社会的な動物と言われるように仕方がないのですが、一方で、常に十分でない、満たされない不安が根底に宿ります。

対照的に、犬などの動物はこのようなエゴに関連する問題がないのではないでしょうか。動物たちは喜びに満ち、自己同一性の不安から解放されています。仏教では、エゴは真の本質と誤解された心の構築物であると強調しています。

なんだか少し難しい話になりましたが、ここで述べたような「自分自身」と「社会的に構築したエゴ的自分」との混同こそが、多くのしんどさ、不安を生み出してしまう原因。そう私は考えています。

個人的な経験ですが、瞑想に興味をもったときに、何となく以上のような考えに共感でき、自分は自分でいいんだと思えました。そんなに外部の評価を気にしなくてもいいのではと。たまたま私は瞑想とかマインドフルネスだっただけで、きっかけはどうでもいいと思います。もっと外部・社会的な自己モデルに執着せず、シンプルに生きていいんじゃないかという素朴な考えを持っています。

コロナウイルスの蔓延したとき、いろんな社会的な「エゴ」のようなものが露になった気がします。そして、その後の時代を私たちは生きています。だからこそ、余計にそう思うのですが、どうでしょうか。


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