大好きな祖母と「生活様式」
2024年、年末も年末に、祖母が亡くなった。老衰とはいえ、それはあまりにも突然の出来事だった。
ちょうど母が施設の変更を画策しており、年始には具体的に話が進む予定だった。祖母が亡くなる一週間ほど前、「祖母にとってこの選択は正しいだろうか」とこぼした母に、「いつ亡くなってもおかしくない年齢なのだから、もう祖母の気持ちを考えすぎるのではなく、残される側の人間が後悔しないような選択をした方がいい」と伝えたばかりで。この私の余計な一言によって母が苦しんでいるんじゃないか、今でも悩んでしまう。
私の祖母は、ロックでお茶目な人だった。日本橋までタクシーをつけて、自宅の庭のように日本橋高島屋を歩く人だった。ハイブランドのお洋服を、値段も見ずに買っては、包装すら開けず、タグの付いたままのお洋服をタンスにしまう。それなのに、祖母自身はというと、会えばだいたい同じ格好をしていて、いつも同じPaul Smithのカバンを持っていた。祖父はそれを咎めたことはなく、祖母をアイドルのように扱った。お嬢様ではなくアイドル。祖母の魅力を表すのにぴったりな言葉だと思う。
だから最期のお別れの時、祖父が、使い古されたPaul Smithのカバンを祖母の足元に置いているのを見て、私は堪らず泣いてしまった。祖母は最期まで祖母だったのだ。
母の突然の連絡からお葬式まで、時間はあった。準備するには十分すぎる時間があった。
10年前に買った準喪服は、カビが生えていてサイズもぶかぶか。新しく準喪服を買おうかとも思ったけれど、今の私にはお金がない。そんなしょうもない理由で、黒いワンピースから白い襟を外して参列することにした。不恰好な準喪服姿の私より、お気に入りの黒のワンピースを着こなして見送る方が、祖母も喜ぶだろうと思ったのだ。
だが、いざ会場に着くと、親族の女性陣はみんな正・準喪服姿だった。ちゃんと身体に合う準喪服を身にまとい、品のいいアクセサリーを身に付けている。私の姿は目立つように感じたし、母には遠回しに咎められた。
「ある程度の形式さえ守っていれば」と思った私を強く恥じた。幼い頃から、銀座や日本橋に行く時は革靴を履きなさいと教わってきたのに。教えてくれたのは何よりも祖父母なのに。品の良い人間であり続けるための生活様式に関しては、祖父母や父母から厳しく言われてきた。だけど、私はそれを軽んじた。生活様式を軽んじた結果、他者からは気持ちすらも軽く見えてしまう。猛烈に帰りたくなった。
今の私だったら、どんなに嫌でも結婚式を挙げていたと思う。結婚式に意味を見い出せなかったから、呼べるほどの友人なんていないと思ったから、ウェディングドレスを着て写真に残すことだけはした。だけど、結婚式に“本当の意味”なんてなくて、全てが生活様式なんだと、今の私なら思える。
最近の風潮として「形式をできるだけ崩す」といった価値観が流布しているように思う。結婚式なんかは顕著だけれど、日々の生活はもちろん、人生の節目までもをカジュアルに済ますことがスマートとされることに対しては、疑問を呈したい。
正・準喪服に関しては、スーツ企業のマーケティングだろうとも思うけれど、思うけれど!それでも私は、隙のない品を身にまとって送り出したいと思った。
