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ゲップは我慢してください

右に3回、まわってください。
つぎは、左に3回~
そうですそうです。
もうちょっと壁の方、向けますか?

クリーム色の天井を見上げながら、
トドのように、ごろりと体を動かす。

正直、びびっていた。

レントゲン室から聞こえてくる技師さんのやたら通る声。そして、検査時間が長い。

先んじてバリウムデビューしている夫情報によると、とにかくゲップを我慢して、指示通りぐるぐる回れとのこと。

「下剤を飲んで、2時間後に出てくるものは白いんだぜ?」と。年に一度、誇らしげに報告される。

夫の話からいろんな想像をしたけれど、あの部屋で何が行われているんだろう。
未知の経験に妄想が膨らんでいく。
昨晩は、緊張したのか寝つきが浅かった。
もしかして、私は繊細なのか。

前回は、妊娠中でスキップした胃のレントゲン。
36歳、満を持してバリウムデビューである。

名前を呼ばれて廊下の奥の部屋、レントゲン室に入る。冷房ギンギンのはずなのに手がじんわりと湿ってきた。

「バリウム、飲んだことありますか?」
廊下まで響いていた声の印象よりも、落ち着いて見える技師のお姉さん。

「いや。はじめてです。」
ちゃんと説明を聞かなきゃ。

「胃は、こんなふうに縦になっています。」
飲むヨーグルトのような、乳白色のボトルを胃に見立てて教えてくれる。

「これから右に傾いたり、左に傾いたりして、このバリウムを満遍なく胃に広げていきます。台が左右や上下に傾くので、手すりにしっかりとつかまってくださいね。」

機械的ではないが、明るくもない。
感情が見えない淡々とした話しぶりに、
「そりゃそうか、私は何人もの中の1人にすぎないもんな。」と勝手にさびしくなる。

見た目はけっこう美味しそう。
そんなことを思っていたら、説明は終わっていた。

聞き逃してないだろうか。
はっと我に返ると、次の説明が始まった。

「では、最初にこの薬を飲んでお腹をふくらまします。口にため込まずに、ごくごく流し込んでください。」

壁越しの部屋から、放送室のマイクみたいなものでこちらに喋っている。

渡された小さな顆粒を口に含むと、しゅわしゅわと甘いつぶが溶けだした。

あ、あまい。

お腹が空きすぎて、なんだって美味しいと感じてしまう。

「では、まず一口飲んでみましょう。」

きた、バリウムだ。
おそるおそる飲んでみる。

ごくり。

うん、まずくはない。
でも、全然ヨーグルトの味じゃない。

「では、一気にごくごく飲みましょう。飲み終えたら左側のホルダーに置いてください。ゲップをしたくなると思いますが、してしまうと撮影がうまくできませんので、ゲップは我慢してください。」

ゲップは我慢してください。

脳内に、最後のフレーズが響く。
これだ。夫がきついって言ってた奴だ。

ドキドキする。
足の裏までじんわり湿ってきた。

ウィーン…
足元から台が上がってきた。
だんだんと水平になっていく体。

プラスチックの踏み台で踏ん張ろうとするが、 なかなか力が入らない。

「右に3回、まわってください。
つぎは、左に3回。
そうです。そうです。」

ゲップを我慢ってどういうことだろう。
気づかれないように、逃がすことはあるよなぁ。
でも、そのものを止めるってあんまりないなぁ。
(なんだか汚い話ですみません。)

うわ、こみあげてくる。
奥の方からぷくぷくと、あれが膨らんでくる。

「次は少し左に傾いてください。」

あ、でてしまう。

だめだめ。飲み込まないと。

これ出ちゃったら、やり直し?
やだやだ、この後夫と子供たちにパンを買って帰らないと。いつだって時間はあまりない。

どのくらい、ぐるぐると回ったのだろう。
終わったかと思ったら、また傾き始める。

右にぐるぐる。左にぐるぐる。

「はい、終了です。おつかれさまでした。」

私はすごくホッとした顔をしていたと思う。
ゲップはどうにか、抑えきれたはずだ。

安堵したのも束の間、
この後すぐに飲むようにと下剤を4錠、渡された。

バリウムはどんどん胃の中で固まるらしく、たくさん水を飲んで外に出さなければならないらしい。強制的に下剤を使って排出する。
ここまでが検診のワンセット。


便秘とは無縁の人生を送ってきた36年、
下剤を飲むのも、人生初めてだった。

いつも快調な人が、下剤を飲むとどうなってしまうんだろう。ゲップを我慢するよりも、実はこれが怖かった。

しかも私には、この後20分自転車を漕ぎ、
パンをピックアップして帰宅するというミッションがある。

何事もなく、娘たちに「ただいま。」と言えるだろうか。

ぐびっと飲み込んだ瞬間から、なんだか落ち着かない。多めの水は、まだ飲まない方がいい気がして紙コップ1杯でとりあえず済ませた。

まだ、待ってほしい。


どうか、待ちこたえてほしい。


なんで、あんな約束したんだろう。
検診センターから家の帰りがけに、お気に入りのパン屋がある。

「わたし、お昼買って帰ってくるよ!」とついつい言ったけれど、ちゃんと考えればよかった。

私は今日、

バリウムも、下剤もはじめてなんだから。

夫も、夫だ。
もう少し気遣って、引き留めてくれてもよかったのではないか。


とりあえず、急ごう。

急いで会計をすませ、帽子をかぶる。
駐輪場で自転車を出すのにてこずったが、何とか走り出した。最短ルートで向かえるように、頭の中に地図を描く。

お腹に力を入れないように、膝から下に重心をかける。お腹が、きゅるきゅる鳴っている気がする。


平常心、平常心。
なんとかパン屋に到着。

あまい系を3つ、おかず系を2つ。と
めんどくさい夫のオーダーを復唱しながらトングにパンを挟みトレイに乗せていく。

だいじょうぶ、だいじょうぶ。

下剤はだいたい2時間後って、聞いている。

まだ、30分くらいしか経っていないはず。


なんとか会計を終え、目指すは最終地点。
我が家だ。


急ぎ過ぎず、フラットな心持ちで。
ペダルは、ひざ下だけで踏む。

これは汗なのか、冷や汗なのか。
帽子の裏にじっとりした汗を感じる。

大丈夫、あの角を曲がれば、我が家だ。



ただいま。とドアを開けて、夫にパンを渡す。




やりきった。


やりきった。




よく頑張った。


今日は、もう頑張らない。

たぶん、無事に終えられると思う。


と思っていた。



その後、実は丸2日も下剤に苦しめられた。
キリキリとした痛み、顔面蒼白。

トイレが家の真ん中にあってよかった。
もう下剤は飲みたくないと、つくづく思った。


ちなみに、夫が言っていたことは本当だった。

「白いんだぜ?」を知った私は

また一つ、大人になった気がする。





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