「空想レター文集 一 : 読書について」全文無料

 とある男から、その友人への手紙

「先日、とある知人に近況を綴った手紙を送ったところ、面白い返事が返ってきたので、読書好きの君にも読んでもらうべく、一部を抜粋して、以下に記しておこうと思う。

『……君の手紙に、最近読んだ本の一冊として、『三島由紀夫レター教室』が挙げられていたが、私も以前読んだことがある。三島の著作の中では、あれは異質な作品で、『仮面の告白』や『金閣寺』、それに『禁色』なんかとはずいぶん毛色が違っているが、三島の人間性の、また違った一部分が表れているように思う。特に、ユーモアたっぷりに人の馬鹿らしさを描いているところが良い。私は、三島のなかでは『美しい星』が一等好きなのだが、これまた少し変わった作品で、自分達を宇宙人であると思っている四人家族のはなしである。一種の、あほらしい感じもするのだが、けして単なるユーモア作品ではないし、大真面目に三島が描き切ってしまうものだから、私は痛く感動した覚えがある。ぜひ、君も読んでみるといい。……。 
 ところで、君は近頃本を読むのが面倒くさくてかなわないそうだが、私にしてみれば、それは全くもって正常であって、むしろ、面倒くさがらずに、浮いた気持ちで読んでいる連中のほうが異常である。  本を好きで読んでる人間は信用ならぬ。皆、嘘つきである。卑しくて、鼻持ちならない人間である。 
 本など、いやいや読まなくてはならない。こんなもの、何が悲しくて読まなきゃならんのだ、と嘆きながら読まなくてはならない。これを書いたやつは、大馬鹿者だ、と文句を垂れながら読まなくてはならない。こんなものなら、俺でも書ける、と馬鹿にしながら読まなくてはならない。 
 私がこう考えるわけを、例えば批判精神の養成だとか、知的権威への反抗だとか、それらしい言葉で飾り付け、尤もらしい形に仕上げることも思案したが、旧知の君に対してそんなことをして、幾分格好つけたところで、なんだかしらじらしいし、かえって君に落胆されるのではないか、という恐れもあるのできっぱりやめ、私の思うまま、感じるままを、つらつら書いていくことにした。しかし、別段妥当な考えがあるわけでもない。単に、そういう人間のことが気に食わないのである。 
 君には言ったことがないけれど、私は本が嫌いである。本を有難がる者も、嫌いである。本は、まず読むのが面倒だし、時間もかかる。そうして苦痛を忍んで読んだところで、世に出回るのは、わけの分からぬ頓痴気じみたものばかりだから、大して身にもならぬ。まともな本など、百冊読んで一冊あるかどうかである。 
 最も腹の立つのは、粗悪な日本語と、粗悪な論理でもって、人々を啓蒙せんとする粗悪な本が、これまた粗悪な人々に有難がられることである。 
 本が好きだと公に宣言する者は、大抵その内容如何にはあまり関心が無く、本それ自体を有難がるから、立派な題と、立派な帯さえ付されていれば、尻尾を振って購入し、内容を理解しているかどうか分からぬような、曖昧で当たり障りのない、無味乾燥の称賛を送って、満足するのである。これでは、犬である。こんなのを見ているだけで、相当にむかむかしてくるのだが、こうした犬が寄り集まると、「賢くなりたければ、本を読め」などと賢しらに煩く吠えてくるので、なおうっとおしい。 
 読者も読者だが、作家も作家である。犬のような読者の顔色を窺い、薄っぺらな悲哀と、安い慰めを餌にやって、悦に浸っているばかりで、文章にちっとも知的格闘の跡が見えてこない。読者はこれで満足するだろうという卑しさが、丸見えなのである。精神の闘争を横に打ちやって、甘い妥協の内に生まれる文章が、どうして感動たりうるだろうか。作家は、精神の闘争の一切を味わおうとする清潔な意力の内に溺れながら、文章を生み出さねばならぬ。そうして生まれた文章だけが、鏡面のような清潔さを宿し、それが表と裏で作家と読者を映ずることで、真に対等で残酷な、文章を介した対話が可能になるのである。……。 
 ずいぶんと長く、仕様のない愚痴を書いてしまった。まだまだ書き足りないのではあるけれど、こんなものを読む君の負担も考えて、ここらでやめておこうと思う。こんなことばかり言っていると、そこまで嫌いなのであれば、何もわざわざ言葉にして批判せず、本を読まなければいいだけではないか、と言われそうなものだが、私は働いておらず、時間だけが有り余っていて、何もせずにいると気が狂ってしまいそうになるから(もう、既に?)、犬以下の小汚いネズミが、暗い湿った場所で、鳴き喚いていると思って、ご容赦されたし。 
 二月 寂れた庭を眺めながら』


 その返事

「お手紙どうもありがとう。君から連絡が来るのはずいぶん久しいから、差出人の名を見たとき、突然のことで、とても嬉しくなった。お手紙には君の近況はあまり書かれていなかったから、少し残念に思うが、何も報告がないのは、万事上手くやっている証拠だと思っている。君が元気で過ごしてくれていれば、僕も嬉しい。 
 本題の、君の友人が書いた、煮え繰り返った腸からやっとの思いで吐き出したような激しい文章も、大変楽しく読ませていただいた。君も知っていると思うし、だからこそあの文を僕に書き送ったのだと思うけれど、僕は子どもの時分から読書が好きで、用事のない日は一日中本に耽っているような人間だから、彼の言い分は刺激が強く、非常に面白かった。 
 もしかすると、僕が彼の文を読んで腹を立てるのを、君は少しく期待していたのかもしれない。君は学生の頃から、悪戯好きだったから。けれど、けして腹を立てるような文ではなかった。これは、僕の、嘘偽りない本心だ。むしろ、彼の言葉の節々から、本への、あるいは知というのか、そういうものへの愛情が伝わってきて、かえって嬉しくなった気さえする。あの毒々しさは、愛の変形だろうと思う。 
 僕は彼のことをよく知らないが、非常に勤勉な読書家だと想像する。だからこそ、あのような考えに至るのだろうし、あのような文が書けるのだろう。 
 実際、彼の言うことも一理あるように思う。昨今出版される本の中には、出典の不確かな情報が多いし、読んでみると、セネカやなんかの、古代の哲学者たちが言ったことの焼き直しのように感じることだって、一度や二度ではない。それはもちろん、作家の問題でもあるが、彼のいうように、そのような本を疑いもせず、嬉々として読んでいる読者、すなわち僕らの問題でもあって、とても耳が、いや、目が痛いはなしだった 。 
 それと、後半の、彼の作家論、創作論のはなしは、非常に興味深い。闘争の一切を味わおうとする、清潔な意力。これは全くもって素晴らしい表現で、読んだときは、思わず声を上げて笑ってしまった。いや、けして嘲笑の類なんかではなくて、本当に素晴らしいものを見たとき、読んだとき、聴いたとき、人は笑ってしまうものだ。僕もその例に漏れず、声を上げて笑ってしまったものだから、横にいた家内からは気味悪がられ、「なにがそんなに面白いんですか」と、呆れられてしまった。 
 それはともかく、この語には彼の潔癖症ともいうべきものが表れているように思う。精神分析などやるつもりもないし、フロイトもラカンもほとんど読んだこともないのだから、できるわけもないのだが、つまり、彼の異常ともいえるほどの、知への潔癖症、あるいは信仰と言ってもいいのかもしれないが、そういった感情が、知を汚す者たちへの毒々しい批判に転化しているのだと思う。先ほど愛の変形と書いたのは、そのためだ。 
 ただ一つ、言っておくべきことがあって、これは非難と受け取ってもらっても、なんでも構わないし、その点に関しては君にお任せするが、彼は勤勉家ではあるけれども、中々に小狡い人物のようにも思った。なぜなら、彼曰く、作家は精神の闘争のうちに溺れながら文を書くべきであるが、彼自身は、手紙の最後に、昨今の作家と読者に対する苛烈な批判を行うことへの、赦しを乞うているからだ。それも、自らを、無職の、小汚いネズミと、過剰に卑下している。あの一連の文章は、彼が自身への反撃を恐れて書いたものだろうと僕は予測する。これは非常に惨めな予防線であって、哀れな逃亡だ。つまり、彼はトウソウ・・・・しているわけだ。作家には闘争を強いておきながら、彼は一人さきに逃走している!何たる自己矛盾だろう。いや、これも彼のユーモアの一種なのかもしれない。彼の人間性というものをよく知らない私にとっては、これが単なる自己矛盾の醜い露呈か、計算されたユーモアなのかの判別が困難ではあるのだけれど、その点については、君の意見をご教示いただければ嬉しい。 
 なんにせよ、僕は彼にとても興味を持ったことは疑いようがない。もし機会があれば、ぜひ彼に会ってみたいものだ。もしかしたら、取っ組み合いの喧嘩になるかもしれないが、そこは仲介役の君の腕次第だ。 
 長々と書きすぎてしまったようだ。そろそろ便箋の枚数が多くなってきたから、ここらでやめにしておく。次はぜひ君の近況を教えてほしい。それか、こちらのほうへ来る機会があったら、久しぶりにお茶でもしよう。もちろんそのときに、彼を連れてきても良い。 僕も、そちらへ行くことがあったら、君のところへ寄らせてもらうつもりだ。そのときは、よろしく頼む。 
 では、お元気で。」

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