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MidNight Bar

雨上がりのアスファルトが
街のネオンの赤や青を映している。
まるで夜に咲く紫陽花みたいなんて思いながら、
私は履きなれたピンヒールで
軽やかに小さな水たまりを飛び越えた。
理由もないのになんだか急に嬉しくなって
くるくると回りだす。
しかし、すぐに危なっかしくフラフラと体の軸を見失い、
手をばたばたと振り回してバランスを取りながら、
なんとかギリギリ両足で踏ん張った。
私ったら、もう酔っぱらっているみたい。
手からぶら下げた小さなプラダをブンブン振り回して
私は軽快に歩き始めた。

ついさっき、
ずっと気になっていたお店で
つけ麺を食べてきた。
ピンヒールを履いて真っ赤なプラダで全身を
武装した女が油まみれのカウンターで
ひとり麺をすする姿にみんなが目を丸くしていた。
愉快だった。けれど本番はこれから。
酔っぱらうのはこれからだ。

大通りから路地裏に入ると、
急に異世界に来たみたいに、
濡れたアスファルトが今度は
ブラックホールのような漆黒を映す。
その奥にぼんやりとした青白い光で
『MidNight Bar』の文字が浮かんでいる。
私は目を閉じ、イイ女スイッチをオンにする。
お気に入りの香水はつけ麺の匂いなど
軽く封じるほど高貴だ。
準備はかんぺき。
私は店の扉を開けた。
思いのほか軽いその扉に
毎度のことながら新鮮に驚き
少しフラつきながら店内に入った。

すぐにマスターと目が合った。
グラスを拭きながら、こちらへどうぞと
無言のジェスチャーで私をカウンターへ導く。
私は悪戯っ子のように少し肩をすくめて
また来ちゃったみたいな表情をする。

席につきながら、さっと薄暗い店内を見渡して
今日のメンバーを確認する。
奥のテーブル席の客は
ここからはハッキリとは見えないが、
どうやらいつもの男性グループのようだ。
私のほうを気にしながら、相変わらず
お前が彼女を口説けよと押し付けあっているのが分かる。
カウンターには一人だけ、初めて見る若い男が
タバコを吸いながらグラスを傾けていた。
私よりも少し年上に見えるその男もまた、
当然、私を目で追ってくる。

席に座ると、いつもので良いですかと
マスターが聞いてくれた。
私はわざと、少し間をおいて考えるフリをして、
お願いするわと答えた。

私に運ばれるお酒を見て、
カウンターの男がギョッとしているのが分かる。
私はフッと鼻で笑い、運ばれてきたお酒
デス・イン・ザ・アフタヌーンのストレートを
すっと口に運んだ。
男はそんな私を見ながら、
手元のアルコール度数の低い酒をグイっとあおる。
意を決した雰囲気を隠せないままに立ち上がり、
私の席に近づこうとした。
そこですかさず、私はアメリカンスピリッツの
ターコイズをわざと彼に見えるよう取り出し1本くわえた。
女が吸うような可愛いタバコではない。強めの煙草だ。
薄暗さの中でも、プラダの赤にそのターコイズは
はっきりと映えた。
怯んだ男は慌てて踵を返し、
上ずった声でマスターに
トイレの場所を聞いてごまかす。
可愛い坊や。そう呟きながら私は煙草に火をつけた。

今日もこの空間は完全に私が支配していた。
舞台は整った。
これから始めるのは、私が自身と戦うゲーム。
ナメられたら敗けというゲームだ。
ルールはとっても簡単。
私がイイ女のまま、このBarをあとにするだけで良い。
ゲームスタート。ゆっくりと目をつむり
いつものよう空想を巡らせる。

江戸っ子の半身浴

やばい、すでに面白い。
(江戸っ子のくせに、ナニ、ぬるめのお湯に
 浸かっとるんじゃーい!)
と心の中でツッコむ。さっそくお腹が痛い。
ダメだ、横隔膜がひくひくする。
もちろん、表には出さない。必死にこらえる。
まさか、こんなイイ女が隠れ家Barでひとり、
こんなバカみたいな空想をしているとは誰も思うまい。
そう考えると、余計に可笑しくなってくる。

半身浴江戸っ子は続いて
ジップロックに入った文庫本を読みだした。
本と一緒に入れた小さな消しゴムの摩擦を利用して
器用にページをめくる。
(おい!江戸っ子のくせに器用だな!しかも長風呂!)
本のタイトルは、‘’怒りのコントロール超入門‘’だ。
(気にしとる!江戸っ子なのに
 気が短いこと、気にしとるっ!!)

やばい、鼻がヒクヒクしてきた。
震える手で必死に顔を隠す。
今日の私は手ごわい。我ながら戦慄する。
このままではマズい。いったん落ち着け私。
慌てて煙草を吸い、肺をタールで満たす。
震える唇から滑り込んだデス・イン・ザ・
アフタヌーンの強烈なアルコールは
つけ麺でいっぱいにしてきた内臓を
もってしても拒み切れない。
ああ、ウコンの力を飲むの忘れてた。
動悸が早くなる。
心が激しく動揺しているのが分かる。
止まらない汗。
手首に絡むブレスレットが
梅雨の湿気のように気持ち悪くて、
少し乱暴に外してカウンターに置いた。

気持ちを静めるために天井を仰いだ。
カウンターを照らすライトが眩しくて思わず目を細める。
だいじょうぶだ。私はまだ戦える。
再び目を閉じて空想を始めた。

温厚で本好きな半身浴江戸っ子は音楽を聴いていた。
どうせ、あいみょんの、マリーゴールド
とかでしょと思っていたら
まさかの、Queenのウィーウィルロックユーだ。
半身浴でせっかく優位になった副交感神経を、
バリバリのロックンロールで台無しにしている!
そう来たかー!と悶えた。
だが耐えた。私は耐えきった。今日も私の勝ちだな。
そう思ったとき、サビの部分で江戸っ子が
足踏みと手拍子を始めた。
ちゃぽんちゃぽん!パンッ!ちゃぽんちゃぽん!パンッ!
手拍子は浴室に響き、
足踏みのところではお湯がちゃぽんちゃぽんと跳ねる。
ノリノリの江戸っ子のちょんまげが
前後左右にブンブン揺れた。

ヤバい!手に持った煙草が大きく揺れ、灰が落ちる。
グーに握った反対側の震える拳は赤から青紫に
紫陽花のように色を変え始めていた。
息をしろ、私!吸うんだ!

マスターが地震かなと眉をひそめる。
震源はもちろん私だ。

どれだけ時が経ったであろうか。
耐えきった。今度こそ。今度こそ私の勝ちだ。
吸い切った息を、ふーっと全て吐き出す。

私はすっかり短くなった煙草を灰皿に押し付け、
グラスを目の高さで傾けると、
口の動きだけで『かんぱい』と言った。
そして時間をかけてゆっくりと、
勝利の美酒に酔った。

私はイイ女風に手で合図をして、
マスターに『チェックで』
と会計をお願いした…
つもりだった。
が、実際に口から飛び出したのは何故か、
『大将ぉ、お勘定!!』
であった。江戸っ子だ。
一瞬で酔いが冷める。
まだ居たのだ、私の中に!
どこからが顔でどこからが
プラダなのか分からないくらい、
私の顔はみるみると真っ赤になっていった。
終わった。完全に。
やけくそになった私は、
てやんでいっ!こっちとらぁ江戸っ子でい!!
すっとこどっこいめっ!!と
1万円札をカウンターに叩きつけ
釣りはいらねーよっ!!と啖呵(たんか)を切って、
予想外に軽く開いた扉にフラつきながら
ヨタヨタとMidNight Barをあとにした。

どうやってマンションに帰ってきたのかは覚えていない。
ボロボロになったストッキングを無理やり引っぺがす。
店を出たところで、地面に漆黒のブラックホールが
落ちているのに気がついて、絶望を振り絞って
飛び込んだことは覚えている。
けれどもなぜか
私は墜ちることも堕ちることもできなくて、
今ここにいる。
いつもより少しだけ軽い左腕に気づいて、
しまったと後悔した。
大切なブレスレットを置いてきてしまったのだ。

数日経ったある昼のこと。
私はいつものようにもぞもぞと布団から這い出して、
脱ぎ散らかした派手な服の下から
黄色い箱のタバコを発掘して、
ベランダでそれを吸っていた。
ブレスレットはもう必要ないかもしれない。
そう思った。
大切と言ってもただの拾いものだ。
私が子供のころ、まだほとんど空っぽで
純粋に、私だけが自分だったあの頃。
川遊びの時にたまたま拾ったブレスレット。
水で濡れているせいもあってか、
プラスチックとは思えないほど輝くその
キラキラは、私の心を信じられないくらい
ときめかせた。
今ではすっかり傷だらけで、
大人が使うようなアクセサリーではない。
この気持ちを思い出せただけで十分だ。
むしろ、四六時中いつでも身に着けていたのに
ブチ切れもせず、よくもまあ
ずっと一緒にいてくれたもんだと感謝した。
そんなことを考えながら、タバコの先端から
ゆらゆらと流れるけむりの行方を
ぼーっと目で追いかけていくと
隣のベランダに梅の実が干してあるのが見えた。
こんな街中で。
なんかいいな、そういう生き方。羨まし。
そう思った。
私は咄嗟に梅干しとは反対側にケムリを吐き出し、
タバコの火を消した。
アメリカンスピリッツの黄色い箱に書かれた
オーガニックという文字を見て
君は何がしたいんだいと呟いた。
コンクリの隙間からわずかに覗ける台形の空は
梅雨だというのにやけに青かった。
眩しさに目を細め、そのまま目をつむる。
だいじょうぶ。私はまだ戦える。
開けたばかりでタバコがまだ沢山入った
その箱を私はくしゃりと握り潰して
ごみ箱に捨てた。

その夜、私はパーカーにジーンズ、
履きなれたスニーカーで
でも髪だけはきちんと整えて、
MidNight Barの前に立っていた。
1万円のお釣りをもらいに来た
のではない。
大切なブレスレットを取りに来たのだ。
深く、深呼吸をして店の扉を開いた。
予想外の扉の軽さは何故かもう私をフラつかせなかった。
この扉の重さを、私は私の思い込みで勝手に決めつけて
チカラいっぱい押してたんだ。
真剣に、一生懸命に、空っぽにならないように
自分を詰め込みすぎて、肩に力が入っていたのかも。
そう思った。

目が合ったマスターは一瞬おどろいて、でもすぐに
見たこともない優しい表情で『お待ちしてましたよ』と
私を店内に導いた。
カウンターにはあの時の
ちょっと年上に見える若い男が座っていた。
私を見るなり、ぱっと目を輝かせて、
エドコさんだ!!とはしゃいだ。
私はすかさず、『誰が江戸っ娘だ、べらんめぇ!』
とツッコんで、お腹の底からけらけらと笑った。
マスターが、いつもので良いですかと
聞いてくれたので
私はわざと間をおき、
イイ女風に
ちょっと考えるフリをしてから言った。

『梅ジュースはあるかしら?』





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