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脳内イメージ考:アファンタジアは「意図的な心的イメージ」体験の不在か?

※ 本記事はアファンタジアに関する個人的な随想です。万人向けの内容ではないため、ご興味のある方にお読みいただければ幸いです。


今回からしばらくの間、不定期で、この記事のタイトルである【脳内イメージ考:アファンタジアは「意図的な心的イメージ」体験の不在か?】に関することをテーマに、随想(思考の整理)を書いていきたいと思う。

とはいえ、このテーマを深掘りしていくと、「心的イメージ・夢・幻覚、またその意図性」といった、現在でも研究者らの間で活発に議論されている領域の話になるため、随想といった「気楽さ」では済まされない展開になるかもしれないが、まあ、とにかく書いてみよう。


脳内イメージ考:アファンタジアは「意図的な心的イメージ」体験の不在か?

〜 心的イメージ・夢・幻覚、またその意図性 〜

頭の中で視覚的なイメージ(いわゆる「脳内映像」)を浮かべたことがあるだろうか。おそらく、多くの人は浮かべたことがあると答える可能性が高い。

まれに、「浮かべたことがある」という経験がない、あるいはほぼない状態の人が存在する。2015年、英国のアダム・ゼーマン博士らが、この状態に関する論文を発表し、この状態を「アファンタジア」という名称(造語)で呼ぶことを提案した。これにより、この状態の存在がより広く知られるきっかけとなった。

その後、アファンタジアを備える人は統計的に少数であり(数%程度・諸説あり)、備えない人は統計的に多数であることも、複数の研究で定量的に示された。

2015年のゼーマン博士らの論文(以下に抜粋)では、アファンタジアは次のように説明されていた。

We propose the use of the term ‘aphantasia’ to refer to a condition of reduced or absent voluntary imagery.

Zeman, A., Dewar, M., & Della Sala, S. (2015).
Lives without imagery - Congenital aphantasia.
Cortex 73, 378-380.

この説明を意訳すると、こんなふうになる。

「我々は、意図的(voluntary)なイメージ(imagery)が低下している(reduced)あるいは不在(absent)の状態を指す言葉として、アファンタジア(aphantasia)という用語の使用を提案する。」

または、論文の文脈を考慮して意訳すると、こんなふうになる。

「我々は、自分の意志による意図的な視覚的心的イメージが低下あるいは完全に不在な状態を指す言葉として、アファンタジアという用語の使用を提案する。」

これが「アファンタジア」誕生の頃の話である。

それから約11年が経過し、現在は2026年になった。アファンタジアを扱う研究は2015年の頃と比べると増え続けており、さまざまな知見が積まれつつも、まだまだ発展途上であり、活発な議論が続いている。

ところで、研究論文やメディア記事、SNS等でアファンタジアが説明されるとき、その核心部分では、次のように述べられることが多いと個人的には感じている。

アファンタジアとは、意図的な心的イメージが、低下あるいは不在の状態である。

2015年以降、さらには2026年現在でもなお、アファンタジアの説明は整理の途上であり、上記の説明どおりではない様々な表現が存在するが、本稿ではそのあたりの経緯や厳密性は割愛し、とりあえず私が見てきた範囲内では「こういったニュアンスで説明されていることが散見される」という程度で感じ取ってほしい。

さて、ここで注目すべきは「意図的(voluntary)」という言葉が示す概念である。これが、個人的に何となくしっくりこない。

なぜそう感じるのか。

それを説明するには、心的イメージや夢、幻覚など、それら現象の区別や意図性(意図的か? 意図的でないか?)について話さねばならない。

本日はここまで。

続きはこちら:


執筆後記:

今回のような短い随想でさえ、案外と神経を使う。というのは、「間違ったことや分からないことを断定している」というふうに読まれてしまう可能性がある部分と、その部分をどういうふうに表現すれば妥当か、という観点がだいたい常に頭の中にあって、それに神経を使う(*1)。そして疲れる。だから今回のように記事自体を短くすると随分楽だ。

*1 まず、私は専門家ではなく、無学・無名の個人に過ぎない。専門家となるべく教育や訓練を受けた経験もなく、分野(今回で言えばアファンタジアに関連する認知や心理、哲学、神経などの分野)の知識を体系的に身に付けたこともない。初歩の基本的な知識さえない。また、こういった分野を研究する世界で前提とされている常識・教養・振る舞いなど、そういったことも全く知らない。だからこそ、こうやってnoteのような媒体で気楽に書けるというのはある。これがもし、その世界で立場のある人間だったとしたら、noteにせよ他の媒体にせよ、軽々しく言説を公開することはデメリットしかないのではないだろうか(※ 個人の憶測です。以下同)。そんな個人活動をしたところで業績には関係ないし、リスクでしかない。活動が予算獲得や地位向上につながるなら別かもしれないが、普通はそんなことに時間を割くくらいなら、その人が立場を置く世界でより認められる方法でそれをやるだろう(学術論文の執筆など)。そんなわけで、私のような「責任もなく」「得るものも失うものもない」人間のほうが、かえって気楽に書ける側面が大いにあるとは思う。そんなフリーダムな立場であるにもかかわらず、先に記した通り、わずかな神経と時間を使い、そして疲れる。では、やめてしまえばよいのでは? という声もありそうだが、言われなくてもいつかやめる。いまは面白いからやっている。だがおそらく面白がってるのは自分だけであって、単なる自己満足なのだろうとは思う。でも人生ってそういうものでしょう?