「お前に言ってねーよ」じゃなく「あなたが良い」と言われたい
私のおでこには、「お前に言ってねーよ」が刺さっている。
正確に言うと、「刺さっていた」。
かつて、心が透明でピュア(たぶん)だった小学生の私は、
同級生のY君が、私に向けて華麗に放った「お前に言ってねーよ」の一言に、撃沈した。
私は、「お前に言ってねーよ」が、おでこに刺さったまま、30代まで生きてきた、と言っても過言ではない。
今や、刺さった「お前に言ってねーよ」は、良い感じに年季が入っている。
それを”レトロ”と呼んでみたら、お洒落なファッションにすら見えるのでは?と思うくらい、私は「お前に言ってねーよ」を、長年着こなしてきた。
そんな私に
「この世には、あなたに向けて贈られた言葉も存在するのよ。
あなたは、相手の言葉を受け取っていい、大切な存在なのよ。」
と教えてくれたのは、「書くこと」だ。
だからこそ、今、「書くこと」が好きになったきっかけは何だったのかを分析してみたいと思う。
「お前に言ってねーよ撃沈事件」は、私にとって、
”人付き合いの土台”になってしまった。
私の人生を、「撃沈以前」「撃沈以後」に分けてみよう。
撃沈以後、私は、”脳内Y君”と共に生きることになった。不本意ながら。
撃沈以後、世の中に放たれたあらゆる言葉と出会った時、
相手がたとえY君でなくても、自戒の念を込めて、自分にこう言い聞かせるようになった。
「相手は、私なんかに向かって言っているのではない。
相手の言葉が私に向かっていると思うなんて、奢っている。
私は、調子にのってはいけない。」
(Y君だって、ピュアな小学生だったはずなので、当時の彼は悪気が無かったはず。)
この土台は、
私を救ってくれるものでもあるし、
私を人から遠ざけるものでもあった。
つまり、この土台は、私が傷つかないように「守ってくれる土台」でもあったし、時には相手を「傷つける土台」でもあった。
具体的に言うと、相手が「私たち、友達だよね♪」と感じてくれているにも関わらず、私は一向に相手を「友達」と呼べない(両想いではない可能性に怯えていたから)、ということがしばしば起こった。
これほどまでに拗らせていた私が、健全に相手と繋がれるのは、
「書いている時」だった。
今思い出せる、最も幼い頃の「書く」記憶
それは、小学生の頃の「手紙」だ。
「手紙」といっても、投函はしない。
近所に住む幼馴染の友達と、机に向かって2人で座り、小さな小さな手紙を書き合っこするのだ。
当時、我が家には、藁半紙がストックしてあった。あの、すこし茶色っぽい、ざらざらした紙。(藁半紙って、今見なくなりましたね。)
6×4㎝くらいのミニサイズに、沢山切り分けておく。
当時流行っていた、たまごっちのキャラクターを描いて、吹き出しを描いて、ひと言書いたりして。
その、”ちび手紙”を、隣に座る友達に渡す。友達はお返事を書いてくれる。そのお返事に対して、私がまたお返事を書く。
これが繰り返される。そういう、やりとり。
その手紙は、一言ずつのやりとりだから、1度やると、読み終わったミニサイズの手紙が沢山出る。
それを保管するわけでもなく、終わったら捨てる。
友達は隣に居るんだから、口で喋ればいい。
だけど、敢えて「書く」やりとりが楽しかったんだと思う。
”敢えて「書く」やりとりが楽しかった感覚”って、なんだろう?
ここを、虫眼鏡で見てみようと思う。
最近、私は、生活を「虫眼鏡で見る」ことにハマっている。
「虫眼鏡で見る」とは、生活の中の一部に焦点を当てて、つぶさに見てみることを指している。
「文を書くのが好きだった」と、たった一言で言えてしまうことを、
その背景や、そこに紐づく想いまで、じっくり観察してみる。
例えば、なぜ好きなのか、どうやって好きになっていったのか、どんな文を書くことに心が躍るのか、文を書くことで自分が何を感じているのか、等を丁寧に見ていく。
そうすることで、
「自分自身の特性を大切に感じる」ようになったり、
生活の中の「自分の悩みを解決するオーダーメイドな具体策」が見つかったりする。
だから、私は「虫眼鏡で見る」ことにハマっている。
(↓他の虫眼鏡シリーズはこちら)
敢えて「書く」理由1
さて、話を戻そう。
小学生の私が、口頭でお喋りすれば良いものを、
”敢えて「書く」やりとりが楽しかった理由”って、何だったんだろう?
まず、1つ目は
「私の言葉1つ1つを、大事に扱って貰える嬉しさ」
だと思う。
「口頭の会話」なら、言葉が一瞬で流れてしまうことも多いけれど、「ちびお手紙」なら、一言ずつ、相手に取り上げて貰える。
しかも、一言ずつに、いちいちお返事を貰えるのだ。
また、口頭って、感情が高ぶっていると、両者の言葉が重なってしまうことも、よくある。
例えば、お互い、何を言っているか隅々まで聞き取っているわけではないけれど、なんか面白くて爆笑、みたいな時。
例えば、腹が立っていて、相手の言い分を聞くよりも、自分の想いをわかって欲しくて、言葉を勢いよく相手にぶつけ合う時。
でも「ちび手紙」なら、
私の言葉を、一つずつ、確かに、受け取って貰えるのだ。
敢えて「書く」理由2
”敢えて「書く」やりとりが楽しかった理由”、2つ目に、
「相手の反応を受けとる余裕がある、という面白さ」
が、あったと思う。
例えば、「ちび手紙」に、私が、ひとこと”質問”を書く。
(この時点で、私の想いを伝えることは完了している。だから、私に”余裕”が生まれる。)
それを隣の友達に渡す。
(余裕がある私は、ちび手紙を受け取る友達の”表情”をじっくり見ることができる。)
友達が、反応する。「ニヤリ。ちょっと恥ずかしいけど答えてみたい…(笑)」という表情を浮かべることもあれば、「うぇっ…!難問…!(苦笑)」と顔をしかめることもある。
私が書いた質問を、友達が確かに受け取ってくれて、その上で反応してくれる。
それを味わえる感覚が、面白かったのだと思う。
「口頭の会話」なら、流れるように言葉が通り過ぎていく。だから、友達の表情が、どの言葉に対する反応なのか、確かに把握することは、私にとって難しい。受け取りそこねることがある。
敢えて「書く」理由3
”敢えて「書く」やりとりが楽しかった理由”、3つ目に、
「明確に、”私に向けて”くれた言葉だ、と分かる嬉しさ」
が、あると思う。
これが、冒頭の「お前に言ってねーよ撃沈事件」と繋がるのである。
私は小学生の頃、「お前に言ってねーよ」という言葉に打ちのめされたことがある、と前述した。
私が小学生の頃、給食は、グループ6人で机をくっつけて食べるシステムだった。
当時の私は、人からの見られ方を異様に気にする気質だったので、グループみんなと気軽にお喋りできるタイプではなかった。
仲の良い友達とは喋るけれど、少しでも距離を感じる相手には、緊張する。
ある日の給食時、同じグループの男子
Y君が、グループみんなに向けて質問を投げかけた。
「みんなに向けて」というのは、私の主観である。笑
私は、緊張もしたと思うが、なぜかその時、私なりに返事をした。
「みんな」には、「私」も含まれていると思ったから。
私の返事を聞いたY君は、イラっとした表情でこちらに一瞥をくれて、
「お前に言ってねーよ」と短く言った。
私は凍りついて、何も言えなくなった。
(彼がそう言った背景には、きっと理由があったと思う。でも私には、それを想像するのは無理だった。笑)
その体験以降、私は、
集団の中で「みんなに向けて」投げかけられた言葉に出会った時、
「私に投げかけられたものでは無い」と肝に銘じるようになった。
そんな訳で(笑)、
ちび手紙のやりとりは、私にとって
「明らかに私に向けてくれた言葉」だという嬉しさ・安心感があったのだと思う。
「書く」ことが、あなたを救う理由
私にとって、「書く」ことが好きな理由は、この原体験にある、と思ったので、この記事を書いた。
まとめると、私が書く理由は、下記の3つである。
1、「私の言葉1つ1つを、大事に扱って貰える嬉しさ」
2、「相手の反応を受けとる余裕がある、という面白さ」
3、「明確に、”私に向けて”くれた言葉だ、と分かる嬉しさ」
つまり、
「書くこと」で
「私は大切な存在だ」を感じているのだと思う。
”相手が”書いてくれると
「確実に、これは、私が受けとって良い言葉だ」
と思えるし、
”私が”書く時は
「確実に、これは、あなたに受けとって欲しい言葉です」
と思っている。
「書くこと」を通じて人と健全に繋がれるようになったおかげで、
私は、心からの友人ができ、好きだと思う人達と仕事ができ、パートナーと共に生き、子どもと一緒に成長している、と言える。
今では、街で、見知らぬ誰かがこちらを向いて手を振っている、という光景に出会った時、
私は、”あ!知り合いかも!”とウキウキして、満面の笑みで手を振り返せたりする。
そして、相手に近づいてから
「お前に振ってねーよ」だったと気づき、
それでも、「テヘヘ(苦笑)」と通り過ぎることができるメンタルにまで、私は成長した。
今や、私のおでこには、何も刺さっていない。
(古傷はたまに痛むが。)
どんな「お前に〇〇してねーよ」にも、テヘヘと笑えるのではないか、とすら思う。
「書くこと」が私を救ってくれたことは、私にとって、人生の天変地異ストーリーである。
Y君は、私を成長させてくれたのだなぁ、と思う。勝手に長年、”脳内Y君”と共に生きて、ごめん!Y君が知ったら、怖いだろうと思う。笑
Y君、どうかお元気で。
私は、今、元気です。
そして私は、これからも書き続ける。
「これは、あなたに受けとって欲しい言葉です」。
こちらは、藤原華|編集者さんのコンテスト「なぜ、私は書くのか」に、感謝を込めて提出させていただきます。
