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雨の横浜駅、水たまりで増えていったもの

「毎日一時間は歩いてね」という主治医の教えを、私は律儀に守っていた。晴れた日にはみなとみらいまで足を延ばし、コールドストーンのアイスを食べたり、ルミネのトゥモローランドで、元に戻ったお腹ですら似合うのか分からない服に夢を見てニヤついたりと、ずいぶん自分勝手に楽しんでいた。きっと私は「律儀」という言葉を一度調べ直したほうがいい。

これは、まだお腹の中にいた娘を、こっそりポコさんと呼んでいた頃の話だ。

その日はあいにくの土砂降りだった。傘に当たる雨音はやけに重くて、周りの薄暗い空気ごと、容赦なくぐっしょり濡らしてくるようだった。それでも歩数だけは稼がねばと、ポコさんをお腹の袋に携えて駅ビル駅地下を歩き尽くした帰り道。最後に寄ったスーパーの袋を左腕に通し、いざ、と傘を構えた。こんな雨の夕方でも、横浜駅は人で溢れ返っている。

駅前広場に差し掛かったときだった。急ぎ足で私の右をすり抜けた誰かの傘が、私の傘をザンッと弾いた。

その瞬間。
私の傘の柄が、ポンッ、と左目に当たった。
ザンッ。ポンッ。

そんな連鎖の先には、緑地みどりじに黄色で「ピ」と書かれた旗が立っていてほしかった。 ​現実は非情だ。旗の代わりに現れたのは、すりガラスみたいにぼやけた視界だった。目を動かし、まばたきをする。指でまぶたの周りをそっと探る。ズレただけであって欲しいという願いは届かなかった。

ザンッ。ポンッ。パッ。
私のハードコンタクトレンズは目から飛び出してしまったらしい。

そこは雨の駅前広場。ひっきりなしに行き交う、たくさんの傘、たくさんの人。ただ、私が立ち止まった場所には、タイルの凹みのせいで巨大な水たまりが出来ていて、人々はそこを避けていた。ははーん。さっきの傘は、この水たまりをギリギリのところで避けようと、私の進路に侵入してきたわけか。

立ち止まっても許される環境、今はありがたい。せり出たお腹や腕、靴の上を確認する。どこにも「ピ」の旗は立っていなかった。当然レンズも見当たらない。
今、落ちたばかりだ。足元にあるはずだ。私は水たまりの淵にしゃがみ込んだ。雨は容赦なくそこに落ちていて、水面は細かく揺れている。

買い物袋の口をキュッと結び、脇に置く。左手で傘を差し、水たまりを見つめ、右手でタイルの底を無作為に探る。お腹のポコさんがつかえて思うような体勢が取れない。「ごめん、今はちょっとだけ我慢して」と心の中で平謝りしながら、さらに顔を近づけ、小さな水色の丸を探す。


「どうしたんですか?」
声に反応して顔を上げると、見知らぬ女性が二人、こちらを見ていた。
「傘にぶつかって、コンタクト落としちゃって…」と私が答えるや否や、二人は無言で私の両隣にしゃがみ込んだ。
そして、当たり前のように水たまりを覗き始めた。

一瞬、状況が飲み込めなかった。だって二人の動きは、人気カフェの前で「ここ、最後尾ですか?」と聞いてそのまま列に加わるように自然だったからだ。一緒に探してくれるのか?いやいや、さすがに申し訳ない。
「あ…ありがとうございます!でもお忙しいでしょうから、お気持ちだけで、もう十分です」と伝える。人気カフェに並ぶほうが、よほど生産性のある時間になりますよ、と心の中でだけ付け足す。
しかし二人は「一人で探すより三人で探した方が早いですよ。それに、私たち暇なんで!」とだけ言って、また水たまりに向き直ってしまった。

なんと優しくありがたい人たちなんだ。そう思うと同時に、両側を固められた私は焦りを覚えた。諦める選択肢は断たれた。でも、あまり時間を奪うわけにもいかない。こういうときの「暇」の半分はやさしさでできている。さっきよりも真剣に水の中に目を向けた。私の口もキュッと結ばれる。

人通りの多い駅前。

「何してるんですか?」という声に、私は再び顔を上げた。
「コンタ…」答えようとした瞬間、私の右の人が、すかさず「この方がコンタクトを落とされたので探してるんです」と、100点満点の答えを返していた。一体何が起こっている?「事情説明は私が担当しますから、あなたは捜索に集中してください」と言わんばかりのサポート体制。この人は、きっと職場ではさぞ優秀な人材なのだろう。我ながら、いい右腕を得た。
いや、違う違う、そうじゃない。そんなことを考えている間にも、その「何してるんですか?」と聞いた人がさらに次の人に返答し、新たな4人目が私のコンタクト捜索に参加してしまっていた。

もう諦めて帰りたい…
そう思い始めていた。いや、正直、両脇を暇二人組に取られたときから思っていたのかもしれない。でも、今さら「もういいです」なんて言える空気ではない。そんなことを口走れば、すでに雨水だまりに顔を近づけてくれている彼らの「善意」を真っ向から踏みにじることになる。

私は、諦めることにした。
コンタクトレンズを見つけることを、ではない。
人が人を呼ぶことを、だ。

ピタゴラスイッチは作動してしまったのだ。
土砂降りの中で、大人たちが巨大な水たまりを覗き込んでいる。人は人が集まるものに惹かれ、自らもその一部になりたがる。転がり始めたビー玉は、旗が立つまで止まることはない。
次なるご新規さんが声をかける相手は、もはや私ではなかった。気づけば、少し離れた場所にしゃがむ見知らぬ誰かが、また新たなメンバーを受け入れていた。もう、なるようになれ。私は一刻も早くレンズを見つけ、ここから抜け出す。


どのくらい経ったのだろう。
しゃがみ込む姿勢は、私にも、お腹の中のポコさんにも相性が悪すぎた。二人分の肉体的「もう無理!」を抱えきれなくなった私は、たまらず立ち上がった。

その目に映ったのは。
見知らぬ人たちが水たまりをグルッと囲み「私のコンタクト」を探している、そこそこのイベント集団だった。人間ピタゴラスイッチは、粛々と作動し続けていたのだ。

大半の人にはきっと「誰かのコンタクト」だった。もはや「誰かの何か」ですらなかったかもしれない。伝言ゲームは必ずどこかでおかしくなる。「あの人のコンタクトを探している」が「あの人の忖度を気にしている」になり得る世界だ。彼らは「誰の何」を探しているのかも知らず、ただその輪の一部として機能していたに違いない。雨の中で生まれ増殖した生命体に、もはや理由など必要ないのだろう。

そして。
私の記憶が正しければ、そこにあったのは体感で直径2m以上の大きな水たまりだ。私の周辺ならまだしも、2m先の対岸でしゃがんでいる彼らは、いったい何を思って探しているのだろう。

理系?彼らは何かの確率でもはじき出したのだろうか。 傘がぶつかった瞬間の速度とベクトルを初期条件に、レンズの放物線を方程式に当てはめ、 2m先の対岸まで射出されたという仮説を導き出したのだろうか。
思考が連鎖する。

目の前に広がるその光景は、どこかおかしかった。
ありがたいはずなのに、どこか落ち着かなかった。

私は、雨の中で突如開催されたフェス主催者として、その中心にいた。それと同時に、どこか一人蚊帳の外のような、そんな不思議な感覚を覚えた。
左目のぼやけた視界も相まって、あれほどうるさかった雨音が聞こえない。 異空間に迷い込んだ気がした。
私は今、映画か何かを見ているんだっけ?

ポコさんがトトンと蹴った。
ハッと我に返った私の耳に、激しい雨音が一気に返って来る。
コンタクトだ。レンズを探すのだ。早く見つけなければ、私の中で、増えていく生命体への恐怖が、慈しみの心にまさってしまう。

でも、待てよ。見つからない場合はどうする? というより、いつまで探す?私は後どのぐらいで「敗北および解散宣言」をするべきなのか。自ら輪を抜けていく素振りを見せる人は、いっこうに現れない。主催として、私は責任を持ってこのフェスを終了させなくてはならない。約30人全員を納得させられる閉会スピーチが、果たしてこの私に出来るのだろうか。誰か、私の代わりに、この混乱した舞台の幕を引いてくれないか。

雨なのか汗なのか分からないものが、とてつもない重圧を背負ってしまった私の背中を、ツーッとつたう。
お腹にまで雨が浸水したのか、ポコさんがまたトトンとする。

きっとポコさんも、私の中の感情に気づき始めている。この得体が知れず名前もつけられない何かを、ポコさんにまで味わわせたくはない。
冷静になれ。視界がぼやけてからは一歩も動いていない。自分の足元をもう一度念入りに探せ。
水に沈んだ床タイルを必死に見た。 目をまん丸に見開き、タイルに穴が開きそうなほど、見た。 見た。 見た。


そして。
その目はついに、うっすら水色を帯びた、丸いガラスの片鱗を捉えた。

「あった…!!!!」

脳汁が一気にほとばしり、私は立ち上がってレンズを掲げ、声を上げていた。そしてそれを合図に、水たまりの輪も立ち上がり、地鳴りのような拍手が波紋となって私に向かってきた。

終わった。やっと終わったのだ。
鳴り響く音の波の中で、窮屈から解放された肉体の痺れが、全身を心地よく包んでいた。その奥で、支配する権限すら持てなかった生命体からようやく解放された精神が、小さく雄叫びを上げた。

ぼんやりしていた視界が輪郭を取り戻したとき、拍手の輪が人間に戻っていった。

一番最初に声をかけてくれた二人組。その後に参加した一人。その隣。またまた隣の人。私が「事の発端」だったのかと今気づいた人。「あの人の忖度を気にした」だけの人。一つの生命体に取り込まれただけの人。
どんより薄暗い駅前広場の大きな水たまりの周りで、彼らの視線は、ただ私だけに向けられていた。

誰かを助けたわけでもない。心を打つ演技をしたわけでもない。ましてや、胸に迫る演説をしたわけでもない。ただコンタクトを落とし、それを見つけただけなのに。何者でもない私に向かって、みんなスタンディングオベーションをしていた。それ以上にただ真っ直ぐな拍手を、私は他に知らない。

どんなお礼の言葉も嘘臭く響き、どんな気持ちも見透かされている気がした。それでもなお、皆、耳にも心にもジンジンと共鳴する音波を送ってくれている気がした。

ひとしきり拍手をし終わった見知らぬ人たちは、フラッシュモブが終わった演者のようにサーッとそれぞれの時間へと帰っていった。
横浜駅の広場が、いつもの煩雑で無機質な空気を取り戻す。



バッドニュース。
ようやく見つけ出したコンタクトレンズは、よく見ると無惨にもしっかり欠けていた。拾い上げた瞬間、私はそのことに気づいていなかった。

あの重圧、あの狂気、あの地鳴りのような拍手。そのすべての中心にあったのが、最初から「欠けていたコンタクト」ひとつだったのかと思うと、さすがに力が抜けた。

それにしても、この世界の支配者は、なかなか粋な計らいをするやつだ。だって、少なくともあの水たまりを囲んだ彼らの時間を、無駄にはせずに済んだのだから。ふっと笑いがこぼれた。夫になんて説明しようかなと考えて、私はまた少し笑った。

雨の日。今でも時折、あのぼやけた視界で見ていた異様な景色を思い出す。ありがたいのに恥ずかしく、心強さと重圧感の隙間を縫い、見えない透明の膜に閉じ込められ、ただただ前を向くしかなかった時間。

でも、冷たい雨と灰色の空気の中にあったはずのあの水たまりは、思い出すと、なぜかいつもほんわりと温かい色をしていて、心の奥を少し温めてくれる。 理由はわからない。きっと説明しようとすると指の隙間から消えてしまう種類のものだ。

ただ、あの日、押しつぶされ狭まったお腹の中で、私と共にあの熱狂の真ん中にいたポコさんは、高校3年間を舞台の上で過ごした。客席から娘に送られる拍手を浴びるたび、私の耳の奥には、あの雨の横浜駅の地鳴りのような拍手が蘇る。そして思うのだ。ああ、あのとき。水たまりの輪の中にあった何かが、雨と一緒に、ポコさんにも伝わっていたのかもしれないな、と。

きらきらと輝いているわけではない、不思議で不気味な、だからこそどうしようもなく尊いあの異空間の記憶。
それは、いまだに欠けることなく、私の心の中で脈打っている。



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