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ねぇアベちゃん。桜は今年も咲いています。

ねぇアベちゃん。もうすぐ命日だね。
今年もサクラは綺麗に咲いているよ。

この前久しぶりに自転車を引っ張り出して走ったんだ。冬の間は部屋の隅に佇んでいたロードバイク。「バイクを自転車に変えて自分の脚で」と決めてからもう随分時間が経つね。最初は信じられないくらい遅くて膝が笑ったよ。でも今は少しは様になってきたと思う。

プロ選手とタイで合宿して月に3000Km以上走ったり、フランスに4週間も屋根裏部屋で下宿させてもらってシニアのレースに出たりしたからね。50過ぎでそんな事するとは思わなかったよ。

桜並木を走りながら、ふと立ち止まったんだ。散りゆく花びらが風に舞う様子を見ていたらあの日のことを思い出した。

あれはアベちゃんが旅立って数年した頃だった。会社を辞めたんだ、ボクは。『何か』を掴もうとモガいていた会社を。結局、その『何か』が何だったのか最後まで分からなかったよ。でも不思議なことに、辞める時には迷いがなかった。

「本当の絶望を超えるから、本当の希望が見える」

あの時病室で言ってくれた言葉が、ずっと心の片隅にあったからかもしれない。心と体が失われる前に自分を見つめ直すことにしたんだ。色んなことがあった。もう忘れちゃったけどね。人間はひどい体験や、信じられないような衝撃的な出来事は忘れちゃうみたいなんだ。

ねぇアベちゃん。

時々不安になることがあるよ。これでいいのかなって。でもね、あの頃と違って、眠れない夜は少なくなった。手の蕁麻疹も出なくなったし、原因不明の咳ももう出ることはない。心臓が止まることもない。

桜が散る様子を見ていると、アベちゃんがカツオ漁に出る前に言っていたことを思い出すよ。

「沖にでると、人間はちっぽけだって思わないか」

当時は何となく分かった気になっていたけど、本当の意味はこの歳になって理解できた気がするよ。

ねぇアベちゃん。もうすぐ命日だね。

正直に言うよ。最後にボクのケータイに電話をくれたとき、ボクは出なかった。「あれ?」とは思ったんだけど、仕事に忙しかったんだ。それが最後の機会だったなんて、あの時は思いもしなかった。

「ねぇ。あなたの事ばかり言ってたのよぉ。まだ来ないのかって。ずっと、ずっと」

焼き場でポツンとしていた僕にそう教えてくれた奥さんの言葉で全部わかったんだ。亡くなる直前に、なぜボクのケータイに電話してきたのか。ボクはバカだから、気づかなかった。ごめんね。もっと早くに行けばよかった。それは今でも後悔している。

お墓にはちゃんと行ってるよ。「阿部孝夫 全日本優勝ワークスレーサー、漁師」って書いてあるはずなんだけど実は普通のお墓(笑)だから知らない人には阿部ちゃんの偉業がわからない。

お墓の前でビールを置いたら急に風が吹いて缶が倒れた。奥さんは「今、挨拶したのよ」って。ボクもそう思いたい。

カツオ漁の季節になると、あの日々を思い出すよ。

黒潮にのって太平洋側をカツオが北上してくる。「カツオ」←「アベちゃん」←「ボク」の追いかけっこ。今でも覚えてる、あなたが船舶電話やケータイ電話を嫌がって、漁協に電話して探さなきゃならなかったこと。

「ケンケン漁」という手法を師匠から学んだって言ってたよね。紀伊半島の小さな漁港から四国沖まで一緒に漁に出たのは忘れられない。夜明けに吹く陸風にのって、エンジンはかけずに帆だけで静かに沖へ出て行く。港を出ると、波は船よりも大きい時もあった。怖かったけどアベちゃんは笑ってた。

じつはね。去年の秋、あの小さな漁港に行ったんだ。そこで老漁師に出会った。「あんたイケマツさんか」と声をかけられて驚いた。ボクのことを話していた事を聞いたから。

老漁師とビールを酌み交わしながら、知らなかった話を聞いた。「阿部さんはね、お前さんが心配だったんだよ。あいつは企業戦士になるには優しすぎる。そのうち倒れるだろう」って。

それを聞いた時、胸が詰まった。

「本当の死」と隣り合わせに生きていたアベちゃんには、ボクの生き方が無理だってわかっていたんだね。それなのに最後まで正面から言わなかった。ただ「バカだねぇ」とニヤニヤしながら、ボクの愚痴を聞いてくれていた。

なんであの世に行ったんだよ。話せねぇじゃないか。

漁師は「運・根(気)・勘」だと言っていたよね。でも実は人生も同じだね。アベちゃんはレーサーとしては凄かったけど、漁師としては腕は上手じゃなかったかもしれない。大漁旗を立てるほど釣れる時もあったけど、まるっきり釣れない「坊主」の日も多かったしね。でも、それでも毎日海に出た。それが大事なんだって今なら解る気がするよ。

50代になってようやく気づいたんだ。若い頃にあれほど追い求めた「成功」や「出世」なんて、実は大したものじゃなかったんだって。

一緒に海に出た日の朝焼けとか、船の上で飲んだビールの味とか、そういう「何気ない時間」こそが宝物だったんだって。

「大成功しそうで、しない奴」—それが老漁師の口を通して聞いたボクへの評価だった。ちょっと腹が立ったけど、よく考えたらそれは最大の褒め言葉だったのかもしれない。

成功しそうで失敗する。でもまた立ち上がって、また挑戦する。その繰り返しが人生なんだって。今のボクはそれでいいと思えるようになった。諦念だね。良い意味の諦め。

あの日カツオをさばいて船の上でビールを飲みながら、擦った生姜と一緒に食べたことを忘れないよ。本物のカツオだった。あれ以上のカツオはまだ食べたことがない。アベちゃん。ありがとう。

最近はね、自分の足で季節を感じるってこんなに素晴らしいって感じてるんだ。アベちゃんが教えてくれた「自由」とはこういうことだったんだと。

アベちゃんはバイクを降りて漁師になった。ボクはスーツを脱いで自転車乗りになった。笑うだろうね。この違い。でもどちらも「本当の自分」を求めた結果だよね。

時々ね。パンクとか向かい風で全然進まないとかもうやめようかなって思うことがある。でもその度に「独りはいいよ。気楽で」と言いながらニヤって笑っていた顔を思い出すんだ。人生も同じだね。

あの頃のボクは残業時間と引き換えに命を削っていた。月残業120時間は当たり前でひどい時は180時間を超えた。大型のイベントやプレゼンが重なると残業だけで月200時間に達する。そうすると「心身全部」が壊れた。でも今は違う。毎日の朝日と夕日を大切にして、季節の移ろいを感じながら生きている。

春は桜と菜の花。夏は太陽と海。秋は紅葉と新米。冬は雪と温泉。四季の中で生きていると忙しさの中で見失ってる「文筆家としての感性」を取り戻せる気がするよ。

GWにはカツオを追いかけようと思ってる。でも今度は一人だわ、どうなるかも分からないけど、それもまた楽しみだよ。きっとアベちゃんなら笑って応援してくれるよね。

あの頃の「何か」を追いかけるのに忙しかった自分と違って、今は「今ここ」を大切にできるようになった。それは間違いなくあなたから学んだことです。ありがとう。

桜の下でこんなことを考えていたら、ふいに風が吹いて、花びらが舞い上がった。まるでアベちゃんが「バカだねぇ」と笑いながら背中を叩いたように。

ねぇアベちゃん。またお墓参りに行くよ。

今年も桜は元気に咲いています。そしてボクはまだ自分の足で走り続けてます。

だから、どうか見守っていてください。ケータイは繋がらなくても、天国からなら見えるでしょ。だから「あの世で待ってる」なんて言わないで、命日にお墓でお会いしましょう。大好きなビールを持っていくから。何年経ってもボクの中ではアベちゃんは生きているから。

じゃあ。またね。


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Jun Ikematsu / 池松潤 チップありがとうございます! よい日をお過ごしください。