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3-2 鍛冶と片目の神


前節では、朱=水銀という物質の両義性と、それを掘り運んだ人々の存在を追った。では、岩石から金属を取り出す者たちは、どのような神を仰いでいたのか。
 日本の神話には、片目の神が登場する。天目一箇神(あまのまひとつのかみ)。鍛冶の祖神とされるこの神の名は、読んで字のごとく「目が一つ」を意味する。なぜ鍛冶の神は片目なのか。その問いを入口にして、銅や鉄といった金属と人と信仰とが結びついていく様を見ていく。

なぜ神は片目なのか

天目一箇神という名がそのまま現れる文献としては、807年に斎部広成が撰述した『古語拾遺』が最も早い。『古語拾遺』にも天岩戸の段が語られており、そこで天目一箇神は刀・斧・鉄鐸(さなぎ)を作った神として登場する。岩戸を開くための祭具を鍛えたのがこの神だった。ただし『日本書紀』(720年)神代第九段の一書にはすでに『天津麻羅(あまつまら)』が登場しており、これを同一神と見なすなら文献上の初出はさらに遡る。日本書紀はこの神を『作金者(かなだくみ)』——金属を鍛える者——と説明しており、名ではなく職掌で呼んでいる。また『播磨国風土記』の託賀郡の条には『天目一命』の名で登場する。播磨は後述するように古代から鉄と銅の産出地であり、鍛冶集団が活動した土地だ。風土記にこの神が現れることは、文献上の神話と土地の産業が直結していたことを示している。
 なぜ神の目が一つなのか。この問いに最初に正面から取り組んだのは柳田国男だ。『一目小僧その他』で柳田は、日本各地に伝わる片目・片足の神や妖怪を収集し、そこに共通する構造を読み取ろうとした。一つ目小僧、片目の魚、片足の案山子——これらは単なる怪談ではなく、何かの記憶が変形したものではないか、と柳田は問うた。柳田が注目したのは、片目・片足の伝承が特定の祭祀と結びついている点だ。たとえば、神に仕える者の片目を潰し、片足を折ることで、その者が逃亡できないようにした——つまり神への奉仕から離れられないよう身体に刻印を施した——柳田はこうした解釈の可能性を提示している。片目・片足は呪術的な「しるし」であり、聖なる領域に繋ぎ止めるための身体的拘束だったという見方だ。
 谷川健一はこの柳田の問いを引き継ぎ、『青銅の神の足跡』で別の角度からの解釈を重ねた。片目の神とは、鍛冶師たちの職業病に由来する、という解釈だ。
 たたら製鉄では、炉の側面に設けられたホド穴(送風口)から炎の色を覗き込んで、鉄の状態を判断する。高温の炎を片目で繰り返し見つづける作業は、視力を確実に奪っていく。尾張国愛知郡にかつて「片輪の里」と呼ばれた土地があったことが『日本霊異記』や『今昔物語集』に記されている。谷川はこの地名に注目し、ここを鍛冶師の集住地と解釈した。鍛冶師たちが片目や片足になっていく現実——職業病としての身体の損壊——が、地名に刻まれているというのだ。
 「十人のうち七、八人は目が不自由」になったという。鍛冶の祖神が片目であるのは、神話的な象徴である以前に、炉の前に立ちつづけた人間たちの身体そのものが神格化されたものだ。柳田が民俗の広がりのなかから拾い上げた「片目」の謎を、谷川は鍛冶という労働の実態に着地させた。

鍛冶神の分布が描く地図

天目一箇神は多数の別称を持つ。天之麻比止都禰命、天久斯麻比止都命、天津麻羅、天目一箇命、天久之比命、天戸間見命、天照眞良建雄命——これらはすべて同一神、あるいはその系譜に連なる神とされる。別称がこれだけ多いこと自体が、この神の信仰が単一の中心から広がったのではなく、各地の鍛冶集団がそれぞれの土地で独自に祀り、独自の名を与えていったことを示唆している。
 これらの神を祀る神社を地図の上に落とすと、その分布は近畿・西日本の鉱山地帯や製鉄地帯と重なっていく。
 播磨には、兵庫県西脇市大木町の天目一神社がある。『延喜式神名帳』に記載された式内社だ。同じく多可郡多可町の加都良神社には境内摂社として天目一神社が祀られている。小野市の菅田神社は天久斯麻比止都命を祭神とする。加古川上流の杉原谷一帯は銅や鉄を産出した。また、揖保川上流の波賀町や千種渓谷、佐用郡でも鉄が産出したが、この地域で精錬された鋼は「千種鋼」と呼ばれ、日本刀の地金に用いられるほど質が高く、その名は全国的に知られた。
 近江には、滋賀県野洲市の御上神社がある。祭神の天之御影命は天目一箇神の別称ともされる。東近江市には「鋳物師町」という地名がそのまま残っている。地名自体が製鉄の痕跡だ。
 三重県桑名市の多度大社の境内には「一目連神社」がある。本宮とともに「多度両宮」と称され、伊勢湾を望むこの地の金属加工と深く結びついていた。大阪の天王寺区には生國魂神社の境内末社として『鞴(ふいご)神社』がある。ふいごとは鍛冶に使う送風装置のことで、神社の名がそのまま鍛冶の道具だ。堺市にも「たたら」の神を祀る陶荒田神社がある。また、徳島県板野郡上板町にも天目一神社がある。
 播磨、近江、伊勢、摂津、和泉、阿波。古代から中世にかけて金属の採掘と加工が行われた地帯が浮かび上がる。鍛冶の神は、鍛冶師がいた場所に祀られた。逆に言えば、天目一箇神を祀る神社の分布は、かつてそこに鍛冶師たちのネットワークが存在したことの物証だ。
 兵庫県西脇市大木町の天目一神社についてもう少し踏み込んでおく。この神社では陰暦十一月八日にフイゴ祭が行われ、但馬・丹波・和泉、近くは三木・姫路から鍛冶職人が参詣に訪れた。西日本の広い範囲から鍛冶職人たちがこの一社に集まっていた。
 加古川上流——三木、小野、西脇、中町——には、天目一箇命を祀る菅田首(すがたのおびと)の一族が居住していたという。多可郡の杉原谷一帯といった加古川の上流には鉱山があり、その近くに鍛冶の神を祀る神社があり、流域に鍛冶師の集団が暮らしていた。川と鉱脈と信仰が一本の水系に沿って連なっている。
 この菅田首は播磨にとどまらなかった。播磨国加茂郡(のちの加東郡)東条の「菅田」を発祥地とする菅田首は、天目一箇神(天久斯麻比止都命)の後裔とされる鍛冶集団だ。その分族は大和国添上郡筒井郷(現在の大和郡山市)に移り、そこでも鍛冶を営んだ。さらに近江国蒲生郡桐原郷にも分かれ、各地に菅田(すがた)神社を建立していった。
 播磨で鉱脈を掘り、技術を磨いた一族が、大和へ、近江へと移り、それぞれの土地で鍛冶を営みながら同じ神を祀る神社を建てていく。これは単なる移住ではない。技術と信仰がセットになった広域移動であり、神社の建立は新しい拠点の旗揚げでもあった。菅田神社の分布は、鍛冶技術の伝播ルートをそのまま地図に刻んだものだ。
 大和郡山市の菅田神社がある地域の南には、額田部北町・南町という地名が残る。谷川健一は額田(ぬかた)を産鉄場に由来する地名と解釈している。
 近江における鍛冶の痕跡は菅田首だけではない。近江国滋賀郡小野に由来する小野氏——小野妹子、小野道風、小野小町、小野篁らを輩出した氏族——も金属との深い関わりが指摘されている。小野神社(滋賀県大津市小野)は小野妹子の創祀と伝える式内社で、公式の祭神は天足彦国押人命と米餅搗大使主命の二柱だが、谷川健一は周辺の製鉄関連地名との関連から、この地の鍛冶との結びつきを指摘している。境内の周辺には「タタラ谷」「金糞」といった製鉄関連の地名が残る。金糞(かなくそ)とは製鉄の際に出る鉱滓のことで、地名に残っているということは、かつてその場所で実際にたたら製鉄が行われていたことを意味する。
 谷川健一は小野氏を、水脈や鉱脈を探しながら移動し、水霊信仰を持ち歩いた氏族と位置づけている。定住する農耕民とは異なる原理で動く人々が、近江という土地を拠点にしながら、各地に鍛冶と信仰のネットワークを広げていった。現在の滋賀県東近江市辺りに拠点を持っていたと言われる、やはり移動民である木地師たちのネットワークも小野宮惟喬(これたか)親王に由来すると言われる。
 ここで、菅田神社があると紹介した兵庫県小野市に戻る。この土地には、鍛冶と渡来人の結びつきを裏付ける痕跡がほかにも残っている。小野市の来住(きし)という町名は、もともと「紀氏野(きしの)」と呼ばれていた。それが、牛頭天王——朝鮮半島の牛頭山に由来するとされる疫病除けの神で、素戔嗚尊と習合した——を祀るようになってから「来住」と表記が変わったのだという。来住には渡来系の秦河勝を祀る大荒社があり、その東北方の「葉多(はた)」という地名も秦の当て字だとされる。鍛冶の祖神を祀る菅田神社、渡来系の秦氏、そして秦氏が信仰した牛頭天王——小野市という一つの土地の上に、渡来人がもたらした技術と信仰が一連のものとして刻まれている。
 この小野市の「小野」は、滋賀郡の小野や小野氏のルーツに当たるのではないかと思っている。鍛冶集団の移動が西から東へ向かったことを考えれば、小野市あたりにいた集団が丹波を経て近江へ移り、「小野」の地名を持ち込んだ可能性はある。しかし、小野市役所のHP等、様々調べたが、明確な名前のルーツは出てこない。もう一つ、根拠のない直感を書いておく。現代でも片目を「眇め(すがめ)」と言う。菅田神社の「菅(スガ)」がこの「スガ目」の「スガ」と同根ではないかと私は思っている。

古代における鉄争奪戦——アメノヒボコと伊和大神

鍛冶の神と鍛冶師のネットワークを追ってきたが、ここでもう一段視野を広げると、鍛冶師たちが活動した播磨という土地には、もう一つの重要な物語が刻まれている。鉄をめぐる神々の争いだ。
 『播磨国風土記』には、葦原志許乎命(あしはらのしこをのみこと)——伊和大神とも呼ばれ、大国主命と同一視される神が激しく国を争った伝承が記されている。伊和大神は出雲系の神だ。出雲地方のたたら製鉄は記紀にも記されているとおり、伊和大神の背後には製鉄集団がいたと考えられる。一方のアメノヒボコは新羅の王子とされ、朝鮮半島から高度な製鉄技術を持って渡来した勢力とされる。つまり、アメノヒボコは播磨にある豊富な鉄資源を狙って、伊和大神に戦いを挑んだのだ。
 この二柱の神が播磨の各地で谷を争い、領域を決めるために黒蔓(つる)を投げ合ったという8『播磨国風土記』宍禾郡御方の里の条)。アメノヒボコの黒蔓ははすべて但馬に落ちた。伊和大神の黒蔓は但馬と播磨に分かれて落ちた。結果としてアメノヒボコは但馬に退き、伊和大神が播磨を領した。
 但馬に退いたアメノヒボコは、出石の鉄を採掘し地域を開発したとされる。豊岡市にある出石神社はアメノヒボコを祀る式内社で、現在も但馬の一宮として信仰されている。一方、播磨には伊和大神を祀る伊和神社(宍粟市)をはじめ、風土記の伝承と結びつく式内社が点在する。
 ただし、播磨を追われたアメノヒボコがまっすぐ但馬に向かったかというと、そう単純ではなかったようだ。段煕麟『兵庫の中の古代朝鮮』によれば、揖保川流域から上陸しようとして伊和大神の勢力に阻まれたアメノヒボコは、いったん播磨を離れて難波に出、淀川をさかのぼり、宇治川を経て近江のあたりを行き来した。近江には天日槍にかかわる神社や地名が多く残っている。そこからさらに北上して越前を経由し、若狭湾から船出して、ようやく但馬国出石に至ったという。揖保川から難波、近江、越前、若狭、但馬——この迂回路は、一見すると敗者の逃避行に見える。しかし地図の上にこの軌跡を置いてみると、いずれも鉄や銅の産地を点々とつないでいることに気づく。退却ではなく、鉄資源の探索と拠点づくりを兼ねた移動として読むことも可能だ。
 この神話が語っているのは、播磨が古代から異なる製鉄勢力の交差点であったという事実だ。出雲系の先住勢力と、朝鮮半島から渡来した鍛冶技術。両者が播磨で衝突し、一方は退いたが、退いた先でもまた鉄の産地に根を下ろした。風土記に記された神々の争いは、鉄の利権をめぐる勢力図の記録として読むことができる。

鉄と渡来人

アメノヒボコの物語が示すように、日本列島の鍛冶技術は渡来人によって大きく更新された。その具体的な痕跡をもう一つ追っておく。
 段熙麟によると、漢鍛冶(からかぬち)と呼ばれた忍海漢人(おしみのあやひと)は、安耶加羅(韓国慶尚南道咸安)から渡来した集団で、大和朝廷に高度な鍛冶技術をもって仕えた。大和国忍海郡(現在の奈良県葛城市付近)に本拠を置いたこの集団は、やがて伊賀、伊勢、近江、丹波、播磨、紀伊へと広がっていった。その分布は、先に見た天目一箇神を祀る神社の分布圏とほぼ重なる。
 播磨国美嚢郡では五世紀頃から忍海部一族による鍛冶がすでに盛んであったが、その後、同じく渡来系の韓鍛首広富(からかぬちのおびと ひろとみ)が播磨国美嚢郡大領(『続日本紀』延暦8年(789年)条)となったことで、大陸系のさらに先進的な精錬技術がもたらされたという。六世紀以降は仏教の伝播にともなって各地に寺社が建てられ、仏像や梵鐘の鋳造、それに必要な大工道具の需要が鍛冶をいっそう活発にした。「金物のまち」として知られる旧美嚢郡、つまり、現在の三木市の産業基盤はこのようにして出来上がっていった。
 忍海部の足跡は地名のなかにも刻まれている。『日本書紀』顕宗即位前紀と『播磨国風土記』美嚢(みなぎ)郡志深里の条に、こんな話がある。雄略天皇に父の市辺押磐皇子(いちのへのおしはわのみこ)を殺された兄の億計王(おけ・のちの仁賢天皇)と弟の弘計王(をけ・のちの顕宗天皇)は、播磨に逃れ、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしみべのみやつこ ほそめ)のもとに身を隠した。丹波の小子と偽って牛飼いとなり、長く潜伏したのだ。その場所が現在の三木市志染(しじみ)付近とされている。
 神戸市西区の「押部谷(おしべだに)」という地名は、「オシミベ(忍海部)」がなまって「オシベ」となったものとされる。神戸電鉄粟生線の押部谷駅周辺がその地だ。山の手には、あたかもルーツを明確に示すかのように古刹・近江寺がある。木幡駅近くには「細目の井」の遺跡があり、志染駅の近くには「細目」という地名も残る。忍海部造細目という一人の人物にまつわる地名が、神戸から三木にかけての狭い範囲に点在している。そして、古代の鉄の存在を裏付けるかのように押部谷駅のすぐ南東には、天一神社がある。
 二皇子の潜伏物語には、劇的な転換点がある。『播磨国風土記』美嚢郡志深里の条によれば、忍海部造細目が新室(にいむろ)を建てた祝いの宴で、二人の王子はついに身分を明かした。宴席で歌を詠み、舞い、自らが天皇の血を引く者であることを告げたのだ。

 たらちし 吉備の鉄(まがね)の 狭鍬(さぐは)持ち
 田打つなす 手拍て子等(こら)
 吾は儛(ま)ひせむ。

又、詠めたまひき。其の辞にいへらく、 

 淡海(あふみ。琵琶湖のある近江)は 水渟(たま)る国
 倭(やまと)は 青垣(あをがき)
 青垣の 山投(やまと)に坐(ま)しし
 市辺(いちべ)の天皇が 御足末(みあなすゑ) 奴僕(やつこ)らま。

『播磨国風土記』

『日本書紀』顕宗即位前紀では、この場面がさらに詳しく描かれる。弟の弘計王(のちの顕宗天皇)が宴席で立ち上がり、次の歌を詠む。

石上振之神榲、榲、此云須擬。伐本截末、伐本截末、此云謨登岐利須衛於茲波羅比。於市邉宮治天下、天萬國萬押磐尊 御裔、僕是也。

『日本書紀』

 意訳すると、王権の象徴である石上(いそのかみ)の布留(ふる)に立つ神聖な杉の木は、(何者かによって)根元から切り払われなぎ倒された。市辺(いちのへ)の宮にて天下を治められた、天萬國萬押磐尊(あめよろずくによろず おしはのみこと)の御子孫こそ、私です、となる。 
 こうして、自分たちが市辺押磐皇子の子であることを名乗り出たために、宴席は一瞬にして凍りつき、忍海部造細目は地に伏して拝礼したという。二王子の身元は播磨国司の山部連小楯を通じて朝廷に伝えられ、帰還に至った。
  二つの歌を順に見ておきたい。
 まず『播磨国風土記』の歌である。ここには「吉備の鉄(まがね)」が詠み込まれている。億計・弘計兄弟の父、市辺押磐皇子は鉄産業の中心地である近江国を拠点とした人物であり、兄弟を匿ったのも播磨の忍海部——渡来系の鍛冶集団——であった。皇位継承権を持つ王子が、鍛冶師の庇護のもとに生き延び、復権していく物語は、鉄の生産力を握る者と王権のあいだに深い相互依存があったことを示唆している。鉄を制する者が王となるのだ。
 次に『日本書紀』の歌である。弘計王は「石上振之神榲」——石上の布留に立つ神聖な杉——を詠み出しとして、自らの皇統を宣言した。この石上の布留とは物部氏の根拠地にほかならない。そして歌の核心は、その神聖な杉が「伐本截末」——根元から切り払われ、なぎ倒された——という一節にある。億計・弘計兄弟の父、市辺押磐皇子は皇位継承の有力な候補であったが、雄略天皇(大泊瀬幼武尊)によって殺害された。兄弟が播磨に逃れ、身分を隠して生き延びなければならなかったのは、この雄略朝による簒奪があったからである。物部氏の象徴たる神木が倒されたという歌は、雄略朝が物部の正統を断ったことを指しているとも受け取れる。その上で弘計王は、市辺押磐皇子の御子孫こそ自分であると名乗った。奪われた側の血と鉄を引き継ぐ正統は我である、という宣言である。
 この読みを裏づける痕跡が、吉備にも残っている。素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治した際の霊剣「布都御魂(ふつのみたま)」を最初に祀った場所とされる吉備国の一宮は、石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)という。石上の名を冠し、鉄と武の神威を祀る社が吉備に存在すること——『播磨国風土記』の歌に詠まれた「吉備の鉄」が物部氏の圏域に属していたことと符合する。
 歴史作家の関祐二は『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』を根拠に、推古天皇が物部氏を「わが眷属」と呼んだと主張し、物部氏出身の可能性を示唆している。ただし同資材帳の原文にこの表現が直接確認できるかどうかには疑問が残る。この問題は本論考の射程を超えるが、鉄と王権の結びつきが一つの氏族や一つの物語に収まらないことを示す傍証として記しておく。

鍛冶師たちが結んだもの

ここまで、一柱の片目の神を起点にして、鍛冶師たちのネットワークを追ってきた。見えてきたのは、鍛冶という技術が単なる「ものづくり」ではなかったということだ。
 鍛冶師たちは鉱脈を求めて移動し、新しい拠点に神社を建て、技術とともに信仰を持ち運んだ。菅田首は播磨から大和へ、大和から近江へ。忍海漢人も、大和・伊賀・伊勢・近江・丹波・播磨・紀伊へとその職能氏族としての拠点を広げていった。アメノヒボコの伝承は、朝鮮半島からの技術の渡来を語る。いずれも共通しているのは、技術と信仰と人の移動が一体であったことだ。天目一箇神の神社の分布とは、この一体的な移動の痕跡にほかならない。
 そして鍛冶師たちが切り開いた道は、彼らだけが歩いたわけではなかった。山で木を伐り炭を焼く者がいなければたたらは動かない。川で荷を運ぶ者がいなければ鉄は平野部に届かない。鍛冶を核にして、炭焼き、杣人、川の運搬者、さらには鉱脈や水脈を占う宗教者たちが、同じネットワークの上に乗っていった。次の節では、その広がりの全体像——「山の民・川の民」と呼ばれた人々の世界——を見ていく。


引用文献

書籍

  • 井上鋭夫『山の民・川の民——日本中世の生活と信仰』(平凡社選書、1981年)

  • 谷川健一『青銅の神の足跡』(集英社文庫、1989年)

  • 谷川健一『鍛冶屋の母』(講談社学術文庫、1985年)

  • 柳田国男『一目小僧その他』(角川ソフィア文庫、2013年)

  • 段熙麟『兵庫の中の古代朝鮮』(神戸新聞出版センター、1985年)

  • 関裕二『物部氏の正体』(新潮文庫、2010年)

論文

荊木美行「播磨国風土記の顕宗天皇名告り伝承について」(『國學院雜誌』121巻11号、2020年)

史料

  • 『古語拾遺』

  • 『日本書紀』

  • 『播磨国風土記』

  • 『続日本紀』

  • 『日本霊異記』

  • 『今昔物語集』

  • 『延喜式神名帳』

ウェブサイト

中谷酒造「社長ブログ」(https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20121130/)

 


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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。