豊臣秀吉はなぜ弟・秀長を失ってから変わったのか?
豊臣秀吉の人物像はつかみにくい
豊臣秀吉は、日本史の中でも特に有名な人物のひとりです。
それにも関わらず「秀吉とはどんな人物だったのか」を一言で説明しようとすると、意外と難しいです。
織田信長のような強烈な個性で語られる人物とも、徳川家康のように忍耐強く基盤を固めた人物とも少し違う。
秀吉は、人を動かす力と政治感覚で出世し、天下人にまで上りつめました。しかしその一方で、天下統一後には支配を固める政策を進め、晩年には朝鮮出兵へ向かうなど、生涯で見える顔が大きく異なります。
中国大返しに見る秀吉の資質
秀吉が全国史の表舞台に躍り出るのは、「本能寺の変」の後です。
この時の秀吉の行動には、判断の速さ、状況対応のうまさ、政治感覚がまとまって表れています。
秀吉が信長の死を知ったのは、中国地方・備中の高松城を水攻めしている時でした。
信長の仇を討つため、約2万の軍勢で引き返す「中国大返し」を決行するのですが、これは決して容易なことではありません。
まず、今まで戦っていた毛利氏に背を向ける形になるので、追撃の機会を与えてしまうことになります。
そこで秀吉は、信長の死の事実を隠して毛利氏との和睦成立を急ぎました。
毛利氏もほどなく信長の死を知ったとされますが、結果として秀吉を追撃しませんでした。毛利側も満身創痍だったのです。
こうして追撃の難を逃れた秀吉軍は、猛スピードで京に向かいます。
秀吉は大返しの途中、姫路城に到着すると、城内の米と金銀を全て将兵たちに分配し、士気を高めました。
さらに秀吉は「信長は生きている」とデマを流し、明智光秀に味方しようとする動きを抑えました。
その後の「山崎の戦い」で、秀吉は光秀を破ります。
戦の強さだけでなく、情勢を読み、人を動かし、機を逃さない秀吉の資質がよく表れています。
ちなみに「山崎の戦い」の時、弟の秀長は、黒田官兵衛とともに明智勢を迎え撃ちました。戦後は丹波の平定を任されるなど、秀吉から厚く信頼されていたことが伺えます。

晩年に見えた別の顔
誰もが驚く勢いで出世街道を突き進み、ついには天下統一を達成した秀吉ですが、晩年は暗い影がさし始めます。
有能な執政官として信頼をおいていた秀長が病に倒れ、亡くなったのです。
千利休は秀吉の茶頭として政治にも深くかかわっていましたが、秀長の死の翌月、秀吉の命で切腹しました。
「利休が茶器の値段を釣り上げて暴利を得ている」という噂が秀吉の耳に入ったことや、利休が自身の木像を大徳寺に安置したことなどが、秀吉の逆鱗に触れたと言われていますが、その理由は諸説あります。

さらに豊臣秀吉の側室・淀殿が生んだ鶴松は、秀吉の待望の我が子でしたが、幼くして亡くなってしまいます。
その後、秀吉は朝鮮出兵を進め、のちには秀次事件も起こしました。
秀吉の甥である秀次は、謀反の疑いをかけられ高野山に入り、秀吉の命令で切腹させられました。秀次の子女・妻妾らも30人以上も処刑されました。
処刑された中には、秀次の側室となる予定だった(まだ秀次に会ったことすらない)最上義光の娘もいました。
この事件が、豊臣政権への不信を強めたことは想像に難くありません。
秀吉は親族が少なかったにも関わらず、秀次を切腹させてしまったことが、豊臣政権が続かなかった原因の一つとして挙げられます。
晩年の秀吉には、天下人としての自信だけでなく、焦りや不安の強まりも感じられます。
「晩年の秀吉は痴呆になって暴走してしまったのではないか?」とまで言われてしまうのにはこういった背景があります。
豊臣秀吉は、身分の低い立場から出世し、人を動かす力と政治感覚で天下統一を成し遂げた人物でした。しかしその一方で、晩年には焦りや猜疑心を強め、若い頃とは違う顔を見せます。
だからこそ秀吉は、単純に「英雄」とも「暴君」とも言い切れない、つかみどころの難しい人物なのだと思います。
参考文献
倉山 満『秀吉再考』
柴裕之(監修)、かみゆ歴史編集部(編集)『太閤記 解剖図鑑』
大石学『一冊でわかる戦国時代(世界のなかの日本の歴史)』
