創戯旅団 理念の記録-SM奇譚 第26夜-女王の棘を数ふる夜
或る深夜、自分の頭蓋を点検してみたくなる時刻がある。点検とは、医学のそれを意味しない。意味のそれである。意味の手つきで自分の頭蓋を撫でてみる、というほどの事である。あるいは、暗い水面に、じっと顔を寄せて、自分の輪郭だけを確認してみる、というほどの事である。意味の頭蓋の点検とは、ひとくちに縮めれば、こういう事である。自分という容器が、いま正常に、鼓動の余韻を保っているのか否か、と。複数の人間は、その問いを、夜半の寝台の中で発する。発する相手は誰もいない。発した以上、あとは自分で回答を用意するしかない。回答を用意する、という行為そのものが、その人を、じわりと、いやがうえにも赤裸にしていく。私は、その赤裸を、これまでに何度となく目にした者の一人である。赤裸を突きつけられた者は、普通、目を伏せる。伏せた目の奥で、その赤裸と、長い時間を過ごす。過ごした時間の長さによって、赤裸は、或る者は諦めへ、或る者は嗤いへ、或る者は祈りへ、と姿を変えていく。どれに変わりゆくかは、本人の資質による。遠い変容ほど、帰り道に灯が少ない。灯の少ない帰り道ほど、足の裏が地の線を丁寧に読む。地の線を読み取るという作業は、知性の、最も古い仕事のひとつである。古い仕事の復権には、新しい言葉の湯気が要る。湯気の立つ言葉だけを、私は選んだつもりでいる。人の一生は、長い廊下のようなものだと思う。廊下には、折々、分岐が置かれている。分岐は、ときに扉であり、ときに階段であり、ときに窓である。中年の頃までに、大半の人間は、その扉のいくつかを自ら選び、階段のいくつかを自ら昇り、窓のいくつかを自ら開けてきた。選ぶという所作そのものが、人を成熟させる、と私には思われる。選び損じた悔いを、選び直した歓びを、選び得る手前の自由を、人間でいる事の醍醐味と呼ぶならば、その醍醐味は、まさにこの分岐の一点一点に宿る。尤も、これは世間では当たり前の話である。尤もだからこそ、当たり前の話として、ここでもう一度、立ち止まって思い起こしておきたい。立ち止まる事には、慣性だけでは到達できない地味な力が要る。地味な力を育てるためにこそ、長い廊下は、長いままに、伸び続けているのである。伸び続けているという事実そのものの中に、私は確かな照りの座するのを、しばしば認める。認めるという動詞は、命名という動詞のはるか手前に立っている。
では、その当たり前の延長から、ほんの数歩、外れた場所へ踏み出した者については、どうであろう。例えば私の場合はどうか。私の経営の上での分岐点は、三つあった。一つ目に、夜の仕事を、生計を立てる手段として、人生の本流に据える、という分かれ目。二つ目に、その夜の業のうち、風俗という種類を選ぶ、という分かれ目。三つ目に、その風俗のうち、SMクラブというより狭い楼閣を選ぶ、という分かれ目。この三つの折り目が重なる一点に、いま、私の靴の底が置かれている。一点を真っ当と呼ぶか否かは、見る者の視座によって分かれるだろう。仮にそう呼ぶ者がいたとしても、おそらく少数派ではあるまいか。ただ、ここまでは、おそらくまだ、人、と呼ぶことが憚られない領域である、とだけは思う。憚られないという語は、強い語ではない。弱い語である。だが弱い語を正確に使い分ける事にも、長い修練が要る。修練の跡は、声の震え方に出る、と、かつて誰かが言った、その言葉を、私はときどき思い出す。震えを聴く事こそが、耳の、最も深い仕事である。その先である。三つの分かれ目を経てなお、自分の観点の中だけで、性に関する事象を、あるいは性に纏わる情趣を、執拗に深掘りし始めた者がいたとしたら、その所作は、常識という語の及ばない圏域に属する。生活を成り立たせる手段とは、別の方角へ伸びる鋤だからである。鋤は鋤として扱えば事足りる。それを情趣の領分にまで構えを持ち込むのは、別の話である。最終的に金に繋がる迂路を通るとしても、迂路は十分に遠い揺れ方をする。揺れ方を読まずに飛び乗れば、地面のいずれかに、足の骨を預ける事になる。預ける事と手放す事は、似て非なる二つの行為である、と私は漸くにして思い知るようになった。預けた骨は、時に利息をつけて戻ってくる。利息の狡い味を、私は知ってなお、預けてしまう。預けてしまう、という弱さの正体を、私は日々の帳簿の隅で見つめ直している。それを選ぶ好奇心を、純粋な好奇心と呼ぶ事は出来なくはない。だが、その好奇心に全生を賭ける人間は、おそらく稀である。常識ある構えの中で、選び得る限りの選択肢を真面目にくまなく吟味した末に、その好奇心に全生を賭ける、という結論に迪り着く者は、まず居ないと見てよい。だから時に、人外、或いは基地外、といった自虐が、ふと口をついて出る。自虐は、自らを客観視する手立てである。手立てを持たぬまま深みに嵌まり込んでいく者は、誰も救われない。身を置かない、という判断は、臆病ではなく立場の違いである、という事を知ってから、私の頬を叩くものはずいぶん減った。減った頬の痛みは、そのぶん、別の場所で、知恵の方へ流れ込んでいる。
私の頭脳は、テスラやエジソンの頭脳の、ごく僅かな割合にも届かない。これも、自虐ではなく事実として申し添えておく。私の脳は、特に傑出した機構を内蔵しているわけでもなく、かといって致命的に劣っているわけでもない。平均より、ほんの僅かばかり、特定の方角に偏った、只の脳である。だからと言って羞じ入る必要もない。偏りという性質は、即座に瑕疵ではない。むしろ、偏りの乏しい凡庸な脳の方が、時に人をして倦ませる、と私は睨んでいる。だからこそ私は、一つの戦術を、ひそかに練り上げてきた。参与、あるいは寄り算、とでも呼ぶべき戦術である。読者様、お客様、女王様、同業者様、業界のご関係の方々、これらの相異なる立場の皆様方に、一つの思考実験にご参加いただき、その結果を外付けとして、私の脳へ加わっていただこう、というのである。外付けの脳は、内臓の脳よりも、もっと雑に、もっと貪欲に、成果を吐き出す。吐き出された成果は、概して、論文の形を取るよりも、嗚咽の形を取る方が、私の作法にはよく馴染む。もし叶うならば、何百という異質な頭脳が補完的に私の推論に加わり、数字の上ではテスラやエジソンのそれこそ何百分の一の脳の性能で、深掘りの到達点を引き上げる事が出来るかもしれない。もちろん、彼らが性に関する何かを工業的に発明したという話は寡聞にして知らない。仮に迪り着いたとしても、到達点は性に関する何かである。彼らにはとても届かない何かである。その齟齬を充分に承知したうえで、書面化を試みる。この書面化を試みるという一点こそが、基地外の精神と、人外の行動力の、私の側での結合点である、と自己分析している。自己分析は、時に滑稽な結論を私に押し付ける。滑稽なだけならばまだ宜しい。だが、その結論に取り組み続ける限り、滑稽は次第に、或る覚悟へ組み替えられていく。私はこの組み替えの工程を、まだ終わり切っていない。工程の途中にある、という自覚だけは確かに持ち合わせている、とだけは申し添えておく。自覚は、完成を意味しない。だが完成の手前に位置する者にとって、自覚は数少ない誠実な伴走者となる。伴走者は完走しない。完走しないからこそ、ずっと横に並んで歩いてくれる。歩く速度は、遅くとも構わない。遅い速度にも、遅い速度にしかない景色の層がある。ここまでが、創戯旅団という読み物の、私自身による足元の測量である。測量はまだ完了していない。だが測量の最中にも、読者はすでに複数の停車駅に降り立っている。ライブドアブログ。デリヘルタウン。口コミ風俗情報局。風俗じゃぱん。デリヘルじゃぱん。駅ちか風俗ランキング。風俗データセンターの系統に属する諸駅。SMスナイパー。高収入求人情報バニラ。一話あたりの乗客数は重複閲覧を差し引いた見積りで、十人ないし三十人。風に乗った回で五十人。百人拡散の回で百人。百人という閾値は私にとって一つの碑であり、その五十分の一の乗客が三期目にご参加くださるなら節目となる。節目は、暦の上では付箋の一枚に過ぎない。だが、その一枚の裏側に、私の体温が、確かに宿る。
さて、私の脳は停車駅ごとに読者の層の異なる顔ぶれを別個に想定している。同じ一つの駅でも、乗客の属性が変われば車内の調度を変えねばならない。調度とは光と陰の配分をいう。配分の拙さを晒されるのは車内の者である、という自覚だけは保っておくべきだと思う。まずライブドアブログから降り立った方々は、生来の好奇心をお持ちの読み手か、既往の読者か、業界のごく一部の得難い方々である。SMクラブという業態を、その只ならぬ発想と行動において注視しておられる、と私は想定する。お店の中で起きた出来事の細部、性風俗という語の周辺に張り巡らされた知識の糸を、惜しげもなく開いて差し上げる必要がある、という意識で臨みたい。惜しげもなくという語は、商売の語彙としては不好きだが、今しばらくそれで押し通したい。押し通す勇気は、時に内容より先に立つ。先に立つ勇気は、後から来る訂正に何度となく首を縦に振らせる。縦に振る、という動作の累積が、やがて一人の人間の背骨となる。大切なのは、彼らにとって参加が絶対の前提ではない、という一点である。闇金融の物語を観る方々が闇金融に通帳を開くわけではないのと同じで、性風俗の物語を観る方々が性風俗の扉を押すわけでもない。扉は開いているか否かだけを問う。開いているという事実が、それ自体として意義を持つ。小さい声は、時に聴衆の最も深い場所に届く、という事を知っている者のみが、その小ささを敢えて選ぶ。敢えて選ぶ者の語りは、届くべき場所へ届く。届くべき場所へ届いた言葉は、二度と同じ場所へは届かない、という宿命を負っている。宿命を抱えた言葉が、次の言葉を呼ぶ、という循環は、文芸の、最も古い呼吸法である。そのうえで娯楽としての色調は保ちたい。娯楽の欠落した読み物からは読者は必ず遠のく。色調とは創戯旅団麻雀部のような、名ばかりの実体のない同好の欄を欄外に設けるという事でも足りる。お店の内幕を知りたがる方もいらっしゃるだろう。そこまで至ったならば、もはや隠す事に及ばない。麻雀卓で槓を開け放つ所作に似ている。私が上がる事はおそらくない。だが、こちらが差し出した牌を相手が即座に上がるという事もない。そういう全面開示を試みたい。切るという動詞は、和むという動詞と同じ手の中にある。開示という動詞は、化粧という動詞のすぐ裏手に隠れている。読者様をお相手とする回のお題は、振り返ってみれば限りなく広い。ありったけの題材を投げ入れる事により、性風俗という業態にほんの少しでも理解と興味をお持ちいただけたなら、長時間かけた書面化の労は充分に報われる。何も、多くを望むつもりはない。望むべき事を抑えつけて構内に持ち込まぬ、というのもまた長い修練の内である。内側の沈黙は内側の充実を必ずしも意味しない。だが、内側の充実のない沈黙は確かに怖い。怖さを認めるという作業は、強さの手前に立っている。立っている、という姿勢の継続が最も尊い。
次にデリヘルタウンの駅舎から降り立った方々を想定する。本線の営業姿勢と高い割合で符合するお客様である可能性が高い。常連様が降りてくださる例も、近年は増えている。この駅では、店主の履歴書のような店内物語を、もう少しだけ詳しくお目にかけたい。いま私は厳選した女王様だけで営業を続けているが、病室を退院したその日から営業の幅を広げる予定である。お店が確かに健在である、という事を絶え間なくお伝えしておく事が必要である。忘れる事は、最も重い負債となる。順序を踏み違えた負債は雪のように静かに降り積もる。降り積もった負債を掻き分ける鋤は、ときどき涙の冷たさを帯びる。そのほかの駅舎も事情は概ね同じである。性風俗広告とは水ものである、と諦念に近い事実と、それでも水を汲み続ける諦観との、終わりのない連続である。私はその連続を、もう何年も続けてきた。続けてきた事実そのものを、ここで受け取っておく、という姿勢が、長く続けるための唯一の潤滑油である。潤滑油の入れ替えは、一年に一度、季節外れの真夜中に行うと、よく馴染む。ここに来て、ある決意がじわりと形になりつつある。風俗人としての十三年あまりの歳月。店を確かに作る事に力を注いできた事。お客様を決して粗末にお扱いしない事に努めてきた事。入って来る女王様方の多くの方が、接客の上で雑な部分を最後まで修正されないまま立たれてきた事。その事実だけは、十三年あまり変わらず、私の前に据えられ続けた。事実を失敗と呼ぶならば、私は失敗の限りを尽くしながら、それでも挫けず立ち向かっていた自分に、ここで一度静かに目を向けたい。その目に映ったものを創戯旅団の上で、とくと正直に差し出す事から、何かが始まる、と信じるのである。何かが始まる、という予感は理屈より早く来る。予感に従うか否かが、日常の静かな岐路である。岐路に立つ、という姿勢を忘れずにいたい、というよりもむしろ、岐路に立つ事そのものを、もう一つの仕事として抱えたい。
そして三期目。私はいま主導権を、私とお客様のあいだに同時に置く、という作戦を練り始めている。普通の構図はおそらく逆である。しかし女王様の半数近くが接客地雷を抱えていらっしゃる、或いは性格の鋭すぎる棘をお持ちである、両方をお揃いで携えていらっしゃる、という事実が十三年変わらず据えられて来た以上、構図を逆転させる事は自然の所作である、と思うに至った。棘は時に蕾である。蕾は時に棘である。同じ一本の茎から出た二つの呼び名を、私は一つに繋ぎたい。繋ぎ直す、という園芸の手つきは、経営という語よりも古い古い仕事のうちの一つである。私とお客様が、同じ地に立ち、同じ眼差しで、問題点を見抜き、修正を願い、願いの届かぬ方には早めにお引き取りを願う。この連携は地道ながら確かな効き目を持つ。地味な効き目は強い効き目より長く残る、と知ってから、私は地道という語の音をより好意的に聴くようになった。好意的な聴き方は、時に、加勢よりも深く作用する。創戯旅団の上で、私はこの連携を折に触れて公表し、お客様との距離を少しだけ縮めたい。縮めた距離は、それ自体として店の厚みとなる。私たちが目にした数は、まさにMという語の極みへと女王様を育て得るだけの経験数である。経験数は年数ではなく深さで測られるべきである、と私は最近、結論めいたものを手にした。手にした結論を机に置くか懐に置くかは、また別の岐路である。Mの世界を極めていく女王様が在籍するお店を作る事を、私は、いつの間にか諦めていない。何も成し遂げていない構えは時に最も強い誠実さを内に宿している。Mに共感する女王様が勤めやすい環境を整える事、増やしていく事も三期目の大事な柱である。創戯旅団が存在しなければ、この柱を組み立てるための対話の余地は生まれない。読み物の存在は重要であり、かつ必然である。位置付けを誤ると、柱は梁に、梁は壁に、壁は床に、誤った変換を辿りながら静かに崩れていく。崩れる前に、ゆっくりと、少しずつ、組み直す、というのが、私のこの先の仕事である。
さて、ここで私の脳は一つの方角に芒を強く結実させようとしている。創戯旅団が在ると在らないとで、性風俗業態の持つ意義そのものが変わってしまう、と私が考える大事なお題を発表する事になる。お付き合いいただく、という語は双方向の語である。私の側も、覚悟を固めねばならない。覚悟は固めるという動詞のままに、一度固めた後もまた静かに緩む。緩んだ覚悟を、再び自分の手の中で固め直す、という反復の運動を、私はこの先、何度も繰り返す事になるだろう。最後に、自分の頭蓋をもう一度点検しておく。点検の結論は変わらない。特別ではない脳が、特別ではない多数の脳と寄り集まって一つの到達点へ迪り着こうとする。その寄り算が創戯旅団という一つの容器の内部で試みられている。容器はまだ乾いており、まだ固く、まだ一つの方角だけを指して据わっている。だが容器の内側で交わされる思考の交換は、すでに始まっている。自分という容器の内部で、私が密密に組み続けてきた言葉の樹は、ようやく最初の分岐点を見定めようとしている。見定める、という動詞はまだ決定ではない。だが決定の直前に立つ、という姿勢そのものを、私はこの一篇で、細く、長く、確かめておきたい。木漏れ日の降り注ぐ方を、一篇ごとに、私は選んでゆきたい。観察という語の裏には、たいていの場合、対話という裏口がある。裏口から対話の席を設けるための器が、この読み物である、とここに改めて記しておく。記しておく、という行為自体が、すでに一つの、遠い対話の始点である、と信じたい。始点という語は、終点のすぐ手前に、ちょうどよい間合いで、置かれている。
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