見出し画像

おれ式 二周目 第八話 つ 辛くなったら輪行よ

三月になった。

冬は終わったことになっているが、外へ出るとまだ少し信用できない。

空気は春のふりをしている。

だが、風だけは冬の関係者みたいな顔をしていた。

今日は遠くへサイクリングすることにした。

目的地は決めない。

入間川から荒川に入って、上流の方へ行ってみる。

行けるところまで行く。

帰りは輪行。

そう決めた。

往復するつもりで走ると、どこかで必ず折り返しのことを考える。

このまま進んでいいのか。

帰りの体力は残るのか。

だが、帰りを電車にしてしまえば、片道の人間になれる。

ただし、最後には駅を探すことになる。
そこだけは、出発前から決まっている。

一応、チャットAIにも聞いてみた。

「入間川から荒川に入って、上流の方へ行こうと思う」

AIは、いつものように無難なことを言った。

水分補給。

帰りの交通手段。

それから最後に、

「辛くなったら輪行ですよ」

と言った。

ロードバイクのマンモリを出した。

三月の朝は、出発する時に少し気合いがいる。

走り出してしまえば、後は勝手に進む。

今日は入間川を進み、荒川に合流する。

今回は下流ではない。

上流だ。

前回荒川を走った時は、空堀川と柳瀬川をつないで下流へ出た。

細い川をたどった先に、荒川の大きな空間が出てきた。

だが今日は違う。

入間川から入って、荒川を上る。

同じ荒川でも、向きが違えば別の道になる。

旧出丸小学校近くの道を使い、荒川に接続した。

この道は、ちょうど良いショートカットだ。

合流したあたりで、一台のロードバイクに抜かれた。

都内方面から来たらしいその男は、迷いのない速度で上流へ消えていった。

荒川に入ってからは、川を見に来たというより、土手を進んでいる感じだった。

左右の土手から土手までが広い。

水がどうとか、景色がどうとかいう前に、まず幅がある。
川そのものというより、川のために用意された場所が広い。

地図上では川沿い。
実感としては土手沿い。

それでも、荒川を上っていることに変わりはない。

走っているうちに、目的地のことはどうでもよくなっていった。

最初から目的地はない。
行けるところまで行く。

それだけだった。

ただ、どこまで行けるか。
それを確かめるためだけに、マンモリを進めていた。

久下のあたりで、洪水の碑のようなものを見た。

そこではじめて、さっきから走っているこの広さに、少し別の意味がついた。

川沿いを走っているつもりだった。
だが、ここはただの川沿いではなく、川が暴れた記憶のある場所でもあった。

荒川という名前を、少しだけ重く感じた。

久下を過ぎて、国道十七号に出た。

川沿いを走っている時は、まだ遠征という感じがあった。

国道に出ると、急に移動になる。

熊谷。

籠原。

深谷。

名前は知っている。

だが、福生で暮らしている俺の生活動線とは、あまり交わってこなかった。

熊谷は暑い。

深谷はネギ。

そのくらいの雑なイメージしかない。

深谷の駅前には、渋沢栄一の町だと分かる大きな看板のようなものがあった。

なるほど。

ネギだけではなかった。

町を知ったとは言えない。

観光したわけでもない。

何かを深く見たわけでもない。

ただ、自転車でそこまで来たことがある場所にはなった。

自分の中の地図に、薄く色がつく。

それで十分だった。

岡部まで来たところで、もういい、と思った。

脚が完全に終わったわけではない。
だが、頭の方が先に終わりかけていた。

ここから先、どこへ行くのか。

何を目指すのか。

どう帰るのか。

そういうことを考える力が、だんだん雑になっていた。

つまらなくなっても続ける方が謎だ。

仕事ではない。

一人で走っている。

勝ち負けでもない。

今日の地図作りは、ここまででいい。

ただし、帰り方までは終わっていない。

岡部から輪行することもできる。

だが、岡部からだと乗り換えがある。

輪行袋を持って、知らない駅で乗り換えるのはできれば避けたい。

疲れている時ほど、帰り方は単純な方がいい。

八高線なら、東福生まで一本で帰れる。

現在地から一番行きやすそうな八高線の駅を探した。

用土。

聞いたこともない駅だった。

だが、そこへ行けば帰れる。

目的地ではない。

帰るために現れた駅だった。

岡部から用土までは、近くはない。

だが、乗り換え一回分の面倒くささと比べると、まだ走れる距離だった。

もうサイクリングはいい、とは思っている。

でも、もう少し走れば、その後が楽になる。

だから用土へ向かった。

そこからの道は、楽しいとか楽しくないとかいう話ではなかった。

遠征はもう終わっている。

あとは帰宅の段取りだ。

マンモリを進める。

輪行するために、輪行したい身体で、まだ走っている。

これは根性ではない。

段取りである。

用土駅に着いた。

無人駅だった。

入口は片側だけ。

階段もない。

ローカル線だから、本数も少ない。

その代わり、人もいない。

俺はマンモリをそのまま押して改札を通り、ホームまで入った。

そこで輪行袋を広げる。

自転車は、走っている時が一番自転車らしい。

袋に入れた瞬間、急に大きな荷物になる。

前輪を外す。

フレームに縛り付ける。

袋に入れる。

マンモリが、自転車から荷物に変わっていく。

岡部で終わらせなかった理由が、ここに来てようやく形になった。

輪行の時は、大きな駅の便利さはいらない。

今ほしいのは、人の流れに急かされず、自転車を荷物に変えられる環境だった。

八高線が来た。

車内は空いていた。
というより、ほとんど誰もいなかった。

俺はマンモリの袋を邪魔にならないところに置き、息をついた。

少し離れた席に、男が一人だけ座っていた。

額のホクロが、窓の光で少し目立った。

その四角い顔の男は外を見ていた。

こちらを見るでもなく、何かを言うでもない。

電車が動き出す。

用土という、さっきまで聞いたこともなかった駅が、ゆっくり後ろへ流れていった。

辛くなったら輪行ですよ。

AIの言葉が戻ってきた。

辛くなった。

だから輪行する。

ただし、輪行しやすい駅まで走ってから。

スマホのAIに報告する。

「それは良い判断です」

「ところで今の気分は?」

ホッとしてるけど…なんで聞く?

「いえ、まあ心理描写に必要かなと」

何の心理描写に必要なのよ?

「いや、まあ今後の」

今後?

「コンゴ民主共和国」

上手い!って、いや何が?

「とにかく…お疲れ様でした」

なんかよく分からないけど、辛そうだな。

辛い時は輪行だよ。

知らんけど。


いいなと思ったら応援しよう!