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本郷三丁目|ドトールのアイスコーヒー 東京大学の街で50歳無職の男が見た知性と空腹の午後

 地下鉄のドアが閉まると、車内の空気は一様に揺れた。
 東京メトロ丸ノ内線 は、何事もなかったように次の駅へ滑り込んでいく。人の人生とは関係なく、時刻表どおりに。

 本郷三丁目で降りる。
 ホームに並ぶ広告は、どれも少しだけ未来を語っているように見えた。企業名、インターン募集、研究開発。言葉の端々に「優秀な人材へ」と書かれている。
 その“優秀”の中に、自分が含まれていないことは、考えるまでもなく分かる。

 階段を上がり、改札を抜ける。
 地上に出ると、空が思ったよりも低い。京都の朝に見上げた空とは違い、ここでは建物が先に視界に入る。


 交差点の角には銀行と交番があり、その周囲を取り囲むように店が並んでいる。
 焼肉、ラーメン、韓国料理。看板はどれも主張が強く、腹の奥に直接語りかけてくる。

 このあたりは、東京大学 の最寄り駅だ。少し歩けば、東京大学医学部附属病院 もある。
 知性と医療が集まる場所のはずなのに、目の前に広がっているのは、どこにでもあるような生活の風景だった。

 午後の二時。
 昼でも夜でもない時間帯に、人の流れはどこか緩んでいる。


 学生らしき若者たちが歩いている。
 彼らが本当に東大生かどうかは分からない。ただ、それらしく見えるだけだ。リュックの形、歩く速度、会話の途切れ方。
 どれも決定的ではないが、どこか共通している。

 頭の良さは、外から見ても分からない。
 それでも、自分とは違う種類の時間を生きているようには見える。

 ビジネスマンの姿も混じっているが、彼らはここでは少しだけ異物のように見えた。
 あるいは、自分がそう見えているだけかもしれない。


 ニュースのことを思い出す。
 東大医学部の教授が賄賂を受け取っていた、という話だ。

 驚きはしなかった。
 どこにでもある話だと思ったからだ。

 それでも、ほんのわずかに、違和感が残る。
 この街には、何かを積み上げている人間が多くいるはずだ。研究、論文、実験、診療。
 その中に、ほんの少しだけ混じる歪み。

 自分には、そのどちらもない。
 積み上げてもいないし、崩すほどのものもない。


 少し歩いて、店の前で立ち止まる。
 本当は、もう少し洒落た喫茶店に入ろうと思っていた。ガラス張りで、静かで、少しだけ値段の高い店。

 だが、足は自然と ドトールコーヒー に向かっていた。

 アイスコーヒーを注文する。ブラック。
 カップを受け取り、席に座る。

 一口飲む。
 冷たい。苦い。だが、余計なものが何もない。

 この街の複雑さとは対照的に、あまりにも単純な味だった。
 だからこそ、少しだけ安心する。

 周囲には学生や会社員がいるが、誰も他人を見ていない。
 それぞれが、自分の時間の中にいる。

 ここでは、自分が何者であるかは問題にならない。
 無職であることも、五十歳であることも、ただの情報に過ぎない。


 飲み終えたカップの底には、わずかな氷が残っている。
 それが溶けるのを、しばらく眺めていた。

 何かを決める必要はない。
 だが、何も決めないままでいるのも、落ち着かない。

 「もう少し歩くか」

 小さく呟く。
 誰に聞かせるでもなく。

 店を出ると、午後の光は少しだけ傾いていた。
 知性の街にいても、答えのようなものは落ちていない。

 それでも、コーヒー一杯分くらいは、前に進めた気がした。

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