6月9日火曜日
卒業以来会っていない、在学中もさして話さなかった高校の同級生が、私のことを「背理法が好きだ」という文集の書き出しとともに覚えているらしい。
私は、背理法って対偶とかの…くらいの記憶しかなく、背理法の実用などしていなかった。少なくとも、これが背理法である、という意識とともには使っていない。
ここ最近、友人からの誘いがよく舞い込む。
商談でそっちの方行くから顔見せてとか、今度休み合わせて出かけようとか、引っ越してきたから久々に会おうとか、モンゴルに行かないか、とか。
モンゴルについて、内と外があることを最近知ったくらいの知識しかないけれど、10年くらい前から行きたいと思っている。ゲルに泊まって馬で駆ける。
認知的倹約家、あるいは認知的ケチ、という心理的傾向が人間にはあるらしい。Wikipediaを見ようとしたら英語のページしかなかった。要は、脳のリソースは限られているから、直感的な判断など認知負荷の低くて速い(が誤りもままある)思考が人間の認知形態の基本であるというものらしい。
参考:人はなぜミスをしてしまうのか
どうやら、そんな人間の基本を逸脱して、高級な思考を続けている馬鹿らしい人間が私であるらしい。複雑な事象を複雑なまま保持し、脳の限界までコンテキストを詰め込み、社内規程から電車の乗り方まで裁判する。自分の感情など後回しで、心はいつも裁判所に通い詰め、自分が嫌だと思ったこれは妥当かどうかをずっと考えている。検証に次ぐ検証。
感情とはそういう濾過されたものではなく、一次的で、発露という表現がピッタリなものである、と友人に言われた。休日に友人2人と会い、私を含めたこの3人中2人は裁判所通いであった。
嫌なものは嫌だし、傷つくことは傷つく。それに対して、相手の思考はこうだろうとか、一般的にはどうかとか、そんなのはまず考える必要がないし、そんなことを考えなくては自分がさらに傷つくような関係は良くないのかもしれない。
自分の身を守る前に、すでに自分は傷ついてしまっているわけで、何をそんなに必死に武装する必要があるんだろう。私は何を守っていたんだろうか。もし傷ついていないとすれば、この痛みはなんであろうか。
人生も四半世紀が過ぎ、まだまだ足元からぐるんと視界が変わる瞬間があるものだと、なかなか惚れ惚れする。
